親鸞聖人と真宗のおしえ
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の生涯をご紹介します。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人の生涯をご紹介します。
親鸞聖人は、今から約850年前に誕生され、平安時代から鎌倉時代にかけて、90年のご生涯をおくられた方です。
9歳で出家され、20年間比叡山で厳しい修行を積まれますが、迷いの霧が晴れることはなく、聖人は山を下りる決心をされ法然上人をたずねられます。そして、「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」という本願念仏の教えに出遇われます。
あらゆる人びとに救いの道をひらいたこの教えによって、多くの念仏者が生まれましたが、それまでの仏教教団からの反感をかうこととなり、朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。
その後に聖人は越後から関東に移られ、そしてその地で二十年間、懸命に生きるいなかの人々と共に暮らし、すべての人が同じくひとしく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。
そしてこのような聖人の願いと生き様は、教えに出遇って生きる喜びを見い出した多くの方々のご懇念によって、今日に至るまで相続されてきています。
親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、人と生まれた喜びと、共に生きることを大切に受けとめたく願います。
親鸞聖人は、今から約850年前に誕生され、平安時代から鎌倉時代にかけての90年のご生涯をおくられた方です。
9歳で出家され、20年間比叡山で厳しい修行を積まれますが、迷いの霧が晴れることはなく、聖人は山を下りる決心をされ法然上人をたずねられます。そして、「どのような人であれ念仏ひとつで救われる」という本願念仏の教えに出遇われます。
あらゆる人びとに救いの道をひらいたこの教えによって、多くの念仏者が生まれましたが、それまでの仏教教団からの反感をかうこととなり、朝廷への訴えによって、法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となりました。
その後に聖人は越後から関東に移られ、そしてその地で二十年間、懸命に生きるいなかの人々と共に暮らし、すべての人が同じくひとしく救われていく道として、念仏の教えを伝えていかれました。
西暦(和暦) | 年齢 | 事蹟 |
---|---|---|
1173年(承安3) | 1歳 | 京の地に誕生。 |
1181年(養和1) | 9歳 | 慈円のもとで出家、範宴と号する。以降約20年の間、比叡山延暦寺で修行。① |
1201年(建仁1) | 29歳 | 堂僧をつとめていた延暦寺を出て、六角堂(頂法寺)に参籠、聖徳太子の夢告により法然上人の門に入る。この後、「綽空」と名を改める。② |
1204年(元久1) | 32歳 | 法然上人が門弟を戒めてあらわした七箇条制誡に、「僧綽空」と署名する。 |
1205年(元久2) | 33歳 | 法然上人の『選択本願念仏集』の書写を許される。また法然上人の真影を図画し、このとき夢告により「綽空」の名を改める。 |
1207年(承元1) | 35歳 | 専修念仏停止。法然上人は土佐、親鸞聖人は越後に流罪となる。西意・性願・住蓮・安楽の4名は死罪、他6名流罪となる。〈承元の法難〉③ |
1211年(建暦1) | 39歳 | 流罪を許される。以降約20年の間、関東で布教。④ |
1214年(建保2) | 42歳 | 佐貫の地で三部経千部読誦を発願、やがて中止し、常陸へ行く。 |
1224年(元仁1) | 52歳 | 『教行信証』に、当年を末法に入って683年と記す。 |
1231年(寛喜3) | 59歳 | 発熱し、病床で『大経』を読み、建保2年の三部経読誦を反省、そのことを恵信尼に語る。 |
1235年(嘉禎1) | 63歳 | このころ帰洛する。以降約30年の間、『教行信証』に推敲を重ねるとともに、『一念多念文意』『唯信鈔文意』『浄土三経往生文類』などの著作、また手紙をあらわして教化に尽くす。⑤ |
1262年(弘長2) | 90歳 | 入滅。⑥ |
親鸞聖人の教えの中心は「信」
親鸞聖人の語録的著書であります『歎異抄』には「本願を信じ、念仏をもうさば仏となる」、あるいは「信ずればたすかる」と明言されています。
ところが、一般的に仏教がどのように受け止められているかといえば、難しいお経を覚えたり、苦しい修行の経験を積んだり、欲望を切り捨てなければ入門できないものだという固定観念があります。これは困ったことです。親鸞聖人の教えは、そういう人間の経験や能力をまったく問題にしていません。もし、そういう能力や経験を問題にするのであれば、仏教が「エリートの仏教」になってしまいます。苦行ができる体力や知力や、精神力のある優れた人間だけが救われる教えになってしまいます。それでは、まったくお釈迦様の教えとほど遠いことになりますね。生きとし生けるものすべてが助かる教えでなければ、仏教とはいえません。時代を超え、民族を超え、地域を超え、能力や性別を超えて、平等に助かってゆく教えでなければ、仏教とはいえません。
とてもデリケートな信仰の世界「信心」
浄土真宗は、ただひとつ「信心」の徹底ということだけが、もっとも重要なこととされています。仏さまが、「助けてあげよう」といっても、その言葉を信じて受け入れるということがなければ、救いは成就しませんからね。まず、「信心」ということが大切です。
しかし、これも世間では、固定観念があります。「信心」というと、「鰯の頭も信心から」などという諺もあるように、なんでも信じ込めば有り難くなるというような、安直な意味で理解されています。理性をかなぐり捨てて、「ありがたや、ありがたや」と頼んでいれば、幸せがくるというようなご都合主義が「信心」ではありません。それでは、人間の「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」という欲望を叶えるために、仏さんを利用しているだけに過ぎません。
あるいは「あのひとは信心家だからね」などといわれたりします。お墓参りを欠かさないとか、朝晩の読経をきちんとするとか、法事をちゃんとするとか、そういうひとを世間では信心家といったりするのですけれども、それと親鸞聖人のいわれる「信」とは直接関係していません。そういう世間的な仏事をちゃんとすることも大切なことでしょう。しかし、その前に、仏事を執り行うこころはどのようなこころなのかを問題にするのが親鸞聖人のいわれる「信」の世界です。ただ、生活習慣となっているからやっていることなのか、それとも、本当の「信心」から起こってきたことなのか。そういう吟味がもっとも大切なことなのです。ですから、きわめて内面的なことです。外見からはなかなか分からない、とてもデリケートな信仰の世界が「信心」の世界です。
お釈迦様のエピソードにも「貧者の一灯」というお話がありますね。お釈迦様をもてなすために、お金持ちは、たくさんの灯火をつけました。しかし、強風にあおられて、すべて消えてしまいます。ところがひとつだけ消えなかった灯火がありました。それは貧しい少女が供養した、たったひとつの灯火だったのです。お釈迦様は、仏教というものは、たくさん供養できるとか、できないという外見上の問題ではなく、ひとりでも本当の信心を獲得するということが最重要なことだと教えたのでした。
「むなしさ」を超えていく…親鸞聖人の「信心」
それでは親鸞聖人は、「信心」をどのように教えられているのでしょうか。それを端的に示すようなご和讃があります。
本願力にあいぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
(高僧和讃-天親菩薩の和讃-)
「本願力にあいぬれば」ということは、「阿弥陀様の救済の願いに遇えたならば」という意味です。それは、別の言葉で表現すれば、「阿弥陀様の願いを受けとめる信心が獲得できたならば」と同じ意味なのです。信心が獲得できたならば、「むなしくすぐるひとぞなき」と続きます。ここに信心が、私たち人間にどのようなはたらき方をするかが述べられています。それは、「むなしさ」を超えるというはたらきです。
決して、人間の欲望を叶えるという意味ではありません。だいたい、人間は、自分が最終的にどうなったら幸せなのかということを知らない生き物です。普段は「ああなったらいいなあ、こうなったらいいなあ」と思って生きてはいますが、それでは「最終的にどうなったら幸せなのか?」と問われると、人間は答えることができません。欲望は死ぬまで尽きませんから、もっともっとと望むものです。
しかし、現代人は、モノの豊さだけでは究極的に幸せにはならないということを気づきはじめています。むしろ、「みずみずしく生きたい」とか「意味のある人生を送りたい」とか「人間らしく生きてゆきたい」という願いが圧倒的なのです。それは、「人生を空しく終わりたくない」というこころの奥底からの叫びなのではないでしょうか。それは、貧しかろうが豊であろうが、もうそんなことはどうでもよい、そんなことよりも、この人生に生きる意味があるのか?空しくないと言い切れる意味があるのか?という悲鳴のようにも聞こえてくるのです。
親鸞聖人は、そういう「むなしさ」を本当に超えてゆける道が「信心」であると教えています。私は、この「信心」は、「そうに違いないと信じ込もうとする心」ではなく、むしろ「宇宙観であり、世界観であり、人間観である」と受け取っています。比喩的に語れば、それは「仏様の眼」をいただくということであります。人間が他人を見たり、社会を見たりする相対的な眼ではなく、全宇宙を超越的に見つめる仏の眼を得ることだと思います。もっと正確に語れば、全宇宙を超越的に見つめる仏の視線の中に自分を感じられることだと思います。
人間の価値基準の世界を超越した視点
「本願力にあいぬれば」ということは、その仏さまの視線の中に自分を見出された感動が語られているのだと思います。それは人間の価値基準のこころを、もはや宛にしないということです。人間が意味があるとかないと決めているのは、すべて人間の価値基準の範囲内のことです。貧富とか、美醜とか、意味があるとかないとか、ひとがいいとか悪いとか、仕事ができるとかできないとか、そういう価値基準の中で人間は、毎日、右往左往しているのです。
資本主義の世界は、役に立つものだけが生きやすい世界です。以前こんな川柳に出会いました。「亭主殺すにゃ刃物はいらぬ、役に立たぬと言えばよい」。実にブラックユーモアの効いた川柳です。どうして、「役に立たぬ」という言葉が、それほどのインパクトをもっているのかといえば、亭主そのものが、「役に立つものは意味があり、役に立たぬものは意味がない」という価値基準の世界に住んでいるからなのです。しかし人間は誰しも、やがて役に立たぬものとなってゆくのです。「老いる」ということは、資本主義の世界では、排除されてしまうわけです。そのとき、そういう価値基準のままに自分を見つめれば、自身のいのちに対して「役に立たない」と烙印を押すことになってしまうのです。ですから、人間の価値基準の世界を超えなければ、自分のいのちをしっかりと受け止めることもできなくなるのです。
この人間の価値基準の世界を超越した視点を得るということが「信心」の世界であります。人間は、心の奥底で、そういう相対的な価値の世界を超越したいと願っているのです。ただ、その方途が分からずにいるのだと思います。親鸞聖人の世界は、そんな現代人に向かって、本当に空しさを超えてゆける世界のあることを教えているのです。
広辞苑で「迷信」を引きますと「迷妄と考えられる信仰」とあります。
さらに「迷妄」とは「物事の道理に暗く、実体のないものを真実のように思いこむこと」とあります。
現代は根拠のない迷信がはびこり、現代人はその迷信を依り処にすることで、私たち人間はさらに深い迷いに悩まされています。
生活に密着した「数字」の迷信
身近な迷信で一番多いのが「日」「数字」「方角」です。 一般的に「大安」は良い日として結婚式が行われ、「仏滅」は悪い日なので避けられます。「友引」は友を引くので葬儀は行わないとされます。この「大安」「仏滅」「友引」(その他「先勝」「先負」「赤口」)は「六曜」といい、一説には中国の陰陽道からきた暦で、戦や博打などの吉凶を占ったもののようです。
「友引」はもともと「共引き」で引き分けを表し、後に「友引」に変わった単なる語呂合わせにすぎません。また「大安」に結婚された方々が必ずしも円満な生活を送っているとも限りません。 次に、数字で言えば「4」は「死」、「9」は「苦」を連想するということで病院やマンションでも4階や9階を表記しないところもあります。
仏事においても「四十九日(一般的に亡くなってから忌明けするまでの期間)は三ヵ月にまたがると良くない」と言われているそうです。これは単に四十九(始終の苦しみ)が三月(身に付く)という語呂合わせからくる迷信です。 人間は生まれる日も死ぬ日も選ぶことはできません。仮に月の中旬以降に亡くなったとすれば、必然的に三ヵ月にまたがりますから避けられません。
「良くないこと」を受け入れられない私たち
「方角」で言えば「北」です。「北枕」が一番有名かもしれませんが、これはお釈迦様が亡くなられるとき、頭を北に向けて横になられた(頭北面西)ところからきており、亡くなられると遺体の頭を北に向けて安置することが現在でも行われています。死者を北向きに寝かすことから「北」は何か縁起の悪いことを連想するのかもしれませんが、これも根拠がない迷信です。
主に「日」「数字」「方角」を挙げましたが、私たちは自分に都合が悪いことが起こると自分に見えない特別な力が働く(バチがあたる)と考え、自分にその責任があることを受け入れず、違う人やものに理由を押しつけようとするのです。
悲しみをや不都合を受け入れることのできない「迷い」から生まれた「迷信」
こうした迷信は親鸞聖人の生きた時代にも色濃く残っていたようです。聖人は迷信に惑う人々を憂い
かなしきかなや道俗の 良時吉日(きちにち)えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ
卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす
(愚禿悲歎述懐和讃第八首)
という和讃を残されています。 意訳しますと
「悲しいことに僧侶や民衆は、何をするにも日の良し悪しを気にして選んだり、
また天の神、地の神を崇めて、占いやまじないにいそしんでいる」
となります。
親鸞聖人の時代から約800年を経て、これだけ科学文明の発達した現代においても違和感なく迷信がはびこっているところをみると、人間の根源的な迷いは変わっていないのです。
「門徒もの知らず」という言葉を聞いたことがありますか?
門徒とは浄土真宗の在家(出家をしていない)信者のことを指しますが、言葉どおりであれば浄土真宗の信者は「もの」を知らない、常識を知らないと解釈されがちです。
ところがこの言葉は元々「門徒物忌み知らず」という表現であったそうです。
つまり「ものを知らない」のではなく「物忌みを知らない」のです。「物忌み」とは先ほど申しあげた根拠のない迷信のことです。
それを門徒は「採用しない」(とらない)と言われていたのです。
真実の教えに出遇い、依り処とすることから迷信や俗信から脱却し、身に起こる事柄を身の事実として受け止め、人間としていのちを賜ったよろこびを感じながら、共に歩んでまいりましょう。