親鸞フォーラム第2回 | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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親鸞フォーラム第2回

親鸞フォーラム第2回

テーマ:人間・罪を生きる

「 死刑 」と「 裁判員制度 」を考える
2009年6月20日

パネリスト
大谷 昭宏氏(ジャーナリスト)
森 達也氏(映画監督・作家)
一楽 真氏(大谷大学教授)

人間・罪を生きる 「 死刑 」と「 裁判員制度 」を考える

一楽「人間・罪を生きる」という呼びかけ、投げかけのようなテーマであります。普通、自分は罪をつくって生きていると思っている人はあまり多くないわけです。しかし、親鸞聖人は自分のことを「悪人」、あるいは「愚かなもの」と呼び、気づくと気づかざるとにかかわらず、多くの罪をつくって生きているというところを、自分の立場、原点とした人です。

そこから考えたときに、先日導入されました「裁判員制度」において、今度は死刑の判決も我々がしていくというようなことのなかで、その問題をどう考えていくかは、私たち自身の生き方を見直す、非常に大事な課題だと思います。

特に死刑存置を日ごろ訴えておられます大谷昭宏さん、反対に、死刑廃止を訴えておられる森達也さんにそれぞれどんな問題を感じておられるか、お聞かせいただきたいと思っております。ただ、それはどちらかに結論を出したいというような趣旨ではございません。それぞれどんな問題を私たちが抱えているかということを、あらためて確かめることから始めたいと思います。
同時に、死刑制度を持っていることの意味、また制度がないと本当に世の中の平安は保つことができないのかということも、併せて考えていければと思います。この世の中をつくっているのは私たち一人ひとりの人間でありますけれども、その私たちがこの制度を必要としているのかどうか。私たちの生き方の問題として確かめることができればと思っております。ですから、今日は意見が際立つように、特に死刑存置を日ごろ訴えておられます大谷昭宏さん、反対に、死刑廃止を訴えておられる森達也さんにそれぞれどんな問題を感じておられるか、お聞かせいただきたいと思っております。ただ、それはどちらかに結論を出したいというような趣旨ではございません。それぞれどんな問題を私たちが抱えているかということを、あらためて確かめることから始めたいと思います。

私たちはどれだけ他者のいのちを奪っても許される存在なのか。

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大谷昭宏氏

大谷 今、実質的には死刑を廃止している国が相当にあります。先進国のなかで死刑制度を存置させているという国は極めて少なくなっているわけです。ただ、死刑廃止に踏み切っている諸国というのは、宗教の力を非常に借りている部分があり、最終的には「神が裁いてくれる」というところがあるわけです。そうでないから、私たちは極めてシビアな議論をしなければならないというところもある。そういう意味では、今日は宗教者のみなさんがこういう会を開いてくださって、そこでお話をさせていただくというのは、私にとっても非常にありがたいと思っております。
そのなかでどちらが正しいとか、正しくないとかではなくて、森さんが常々おっしゃっているように、「あるものに対して私たちは直視をしていない。制度があることをみんなが、あるいは八割が賛成していると言いながら、誰が直視をしたのだということであれば、結局誰も直視していないのではないか」ということを考えていきたい。ただ、私は事件記者として事件、事故と触れ合って、向き合って、すでに四十年。言うなれば人の生き死に、しかも非業の死、通常の死ではないものと向き合ってきたなかで、やはり、どうしても死刑制度の廃止ということには踏み切れない。あるいは踏み切ってはならないのではないかという思いがあります。みなさんにこの意見を直視していただいて、検証していただければと思っているわけです。

 私は、足利事件で逮捕されたが先日DNAの再鑑定の結果、ほぼ無実が確定して、十七年半ぶりに千葉刑務所を出所された菅家利和さんと二つの番組でご一緒しました。日曜日の『サンデープロジェクト』(テレビ朝日系列)が終わりましてから、菅家さんと一緒に食事をしながらお話をさせていただきました。
菅家さんは本当に怒っています。最初は、とにかく解放された喜び、自由になった喜びのなか買いものに行く。そして、私たちと一緒に食事をする。そのなかで誰がこうやって十七年も閉じ込めたのだという怒りに変わってきた。あたりまえのことだと思うのですね。
私は死刑制度を支持しているけれども、菅家さんの場合は、今の裁判員制度、これからの裁判員制度のなかでは、死刑が選択された可能性が極めて高いのです。もしも、死刑を執行していたらどうするのだということを、私自身が、食事をしながら菅家さんを目の前にして、突き付けられたわけでるわけです。
では、冤罪の可能性があるから、死刑という制度をまったく廃止してしまっていいのだろうかということも、あらためて考えてみるべきだと思うのです。
三月に私は名古屋でAさん(仮名)という一人の女性に会っています。Aさんの一人娘は、母一人、子一人の生活で、何とかお母さんと一戸建ての家に引っ越そうと一所懸命八百万円のお金をためていたのです。しかし、いわゆるインターネットの「闇サイト」で知り合った三人組に、自宅まであと二百数十メートルというところで車のなかに引っ張り込まれて、カードの暗証番号を聞き出そうということで、たいへんな暴行を受けて、そのうちの一人に強姦をされて、あげく殺されたのです。その強姦した男が「闇サイト」の呼びかけ人でした。ところが山のなかでAさんの娘さんの死体を遺棄したあと、彼だけが警察に飛び出していきます。このときはまだ遺体が発見されていませんから、「刑法四十二条」の自首減免の措置になるわけです。本来であれば、三人ともおそらく死刑になるにもかかわらず、名古屋地裁はその一人に事件発覚前に自首してきたということで、無期懲役を言い渡したのです。彼に誘われた二人は当然のことながら死刑判決です。Aさんがどれほど悲しんで、すべての司法に絶望しているか。まったく見ず知らずの人間が「闇サイト」で呼びかけ合って、このようなかたちで人のいのちを絶った。はたして、私たちはAさんに対して、死刑を望むべきではないということが言い切れるのだろうか。

 私はAさんとじっくりお話をさせていただいた後、思いきって判決直前に名古屋拘置所のその呼びかけた張本人に面会に行きました。けれども彼は、まったく反省していないです。「名古屋市の人口が一人減っただけではないか」とまで言っているのです。
そういうなかで、今私たちが国民の七割、あるいは八割が残してくれと言っているこの死刑制度を、なぜなくさなければならないのか。少なくとも私たちの国は私訴を許さない。私ごとで訴えることは民事裁判でしかできない。刑事裁判では、もうそこで被害者は置き去りにされて、国家がそれに代わる。公の訴えとして国家が訴えて裁くのだということにしているときに、公訴のなかでこの死刑制度はなくしますと言う権利が、はたして私訴を認めない国家にあるのだろうかということからすると、到底この制度を廃止することは許せない。
私は四十年間、大勢の被害者と出会ってきました。子どもを殺された親で、死刑でなくてもいいとおっしゃった方は今まで一人もいません。
死刑は残虐な刑だとか、あるいは本来人間を立ち直らせるために刑罰があるのだという論理も、当然これから出てくると思います。しかし本当にそうなのでしょうか。まったく意図しないで、その揚々たる人生を断ち切られ、それでもなお、自分の意思でいのちを奪った人のいのちを奪ってはいけないというのであれば、あまりにも不平等ではないか。刑罰とは、まさに「因果応報」です。「目には目を」はいけないという論理ももちろんあると思いますが、私は刑罰というのは応報刑であっていい。それ以上であっても、それ以下であってもならないと思います。
本来、刑罰とは教育刑で、人を立ち直らせるものであり、更生させるものである。あたかもそれは美辞麗句のように語り継がれていますけれども、例えば、俺は大統領になりたいだとか、この首相の考え方は違うのだとか、俺はこういう主張に基づいて犯罪を犯すものに教育刑を持ち込むのであれば、それは戦前と同じではないですか。

 そうではなくて私は本来、刑罰というのは、人のこころのなかにまで入るべきものではないと思っています。それは応報の刑罰によって支えるものであって、国家が人間の考え方を変えるという方がよほど残酷であり、本来民主主義国家のなかであってはならないことだと思います。
だから、私は応報刑でいいと思います。それは考え方であって、「目には目を」というのは、それ以上のことはやってはいけないということです。例えば、誰かが人殺しをしたからと言って、かつてのように、その親族をも社会から抹殺するようなことをしてはいけない。
ですから、今度は国民が裁判員として自らが参加していくなかで、そのことの重さを、より普遍的に享受すればいいことであって、裁判員制度が始まるから死刑制度はなくさなければいけないということはないと思います。

私は裁判員制度には大賛成です。ただ、今のやり方には大反対していますが、少なくとも裁判員制度のなかでも、死刑制度を存置させて、国民共有の課題としてこれから考えていけばいいではないかと思います。なぜ、今、裁判員制度が始まるなかで、職業裁判官であったら制度があっても良くて、裁判員制度であったら悪いのか。それは私たちがその制度を放置してきたということで、まさに森さんがおっしゃるように、直視していなかったということにもつながってくると思うのです。
ただ、私は存置のなかで、凝り固まっているのかというと、そんなことはないわけです。人の生き死ににかかわることをそう簡単に自分のなかで決められるわけがない。
いつもこういう話をさせていただくたびに、自分のなかで反芻していることは、アメリカで、幼女である自分のお嬢さんを、まさに強姦殺害されて、それで獄中にいる犯人と交流していくなかで、アメリカの死刑廃止運動のリーダーになられた女性がおられるんです。その彼女が、私たちがこういう取材をするたびに、必ずサゼスチョンとしておっしゃってくれる言葉、「人を殺してはいけないということを教えるために、あなた方はなぜもう一ついのちを奪うのですか」という問いかけです。はっきりと申しあげて、私はその言葉に対する答えはいまだに持っていないのです。いまだに持っていないからこそ、こういうところで、みなさんと一緒に悩んでいきたい、議論していきたいということが、この会に参加させていただいた理由です。

人が死ぬことを願う人生はやはり内側からその人を蝕むと思う。

 ただ、今、大谷さんもおっしゃったように、界の趨勢、三分の二は死刑を廃止しています。EUは死刑廃止が加盟条件です。ヨーロッパについては、独裁国家と言われているベラルーシ以外はすべて死刑を廃止している。
では、死刑を廃止して犯罪が増えたかといえば、ほとんど増えた国はないです。凶悪犯罪は死刑廃止以降、ほぼ横ばい、もしくは減っています。つまり、社会学的にも統計学的にも死刑制度が犯罪抑止に役立っているとは言えない。これは定説になっています。
では、ほかに死刑存置の理由は何かと言うと、おそらくは被害者遺族の応報感情です。逆に死刑廃止の理由は何かと言うと、まず、やはり冤罪です。
大谷さんが例に挙げました菅家さんの足利事件と、もう一つ足利事件の二年後の飯塚事件もありました。やはり幼女殺害です。久間さんという方が逮捕され、終始一貫否認しています。状況証拠だけで物証もありません。ただ、DNA鑑定が大きな決め手となって、彼の死刑判決が確定しました。つまり、足利事件とまったく状況が同じですよね。この飯塚事件についても早急にDNA再鑑定、さらには再審という手順を踏まなければいけないというのが道理だと思いますが、できません。やっても意味がない。なぜなら、去年の秋に死刑が執行されたからです。
この時期、このDNA鑑定によって有罪宣告をされた人は、まだいっぱいます。一九八〇年代に死刑判決がいったん確定してら、再審が認められて、四人の方が冤罪であることが発覚しました。それ以降、一件も死刑事犯による再審請求は受理されていません。どう考えても冤罪があれからなくなったはずはないですね。なぜ受理しないのか。組織防衛としか思えません。組織ですから、ある程度はわかりますが、人のいのちです。そう考えれば、そんなに簡単にすませられる話ではない。
ただ、同時に冤罪だけが理由で死刑が廃止されねばならないとは、僕は考えません。冤罪はべつに死刑だけではない。いろいろな事件に冤罪はついて回ります。さらに言えば、冤罪が絶対になければ、死刑をやってもいいのかということになってしまいます。仮に冤罪がなくても僕は死刑を廃止すべきだと思っています。

 死刑存廃論議は、もう二十年、三十年前から、あるいは戦後からずっとありました。ロジックだけで言えば、すでに決着がついています。死刑制度に利はないです。なぜ死刑がなければならないのか。ロジックで言えば、一つは社会防衛、犯罪抑止で、つまり死刑があることで凶悪な犯罪が減っているとついつい思いたくなるのです。

 同時に考えなければならないことは、冤罪が絶対ない状況など絶対ありえない。100パーセントありえない。なぜなら、人が裁く行為だからです。人は間違いを犯します。常に留保を置かなければいけないと考えます。
死刑の廃止の理由の一つは、例えば、三分の二が死刑を廃止したという国際社会の趨勢です。でも、これも死刑の廃止の確かな理由にはならないと思っています。仮に日本以外の国がすべて死刑を廃止しても、この国では死刑を存置すべき理由があるのだときちんとそれを説明できればやるべきだと思います。胸を張って執行すればいい。でも、その理由がいくら探しても見つからないということは、おそらく存在していないと、今、僕は考えています。
僕はテレビディレクターを過去十数年やりまして、その後にオウム真理教のドキュメンタリー映画を撮りまして、それからはものを書くことにシフトしています。オウムの映画を撮ったころに、「もしあなたの家族が地下鉄サリン事件で死んでいたら、あなたはこの映画を撮れたのか」と質問されました。そこで僕は「撮るはずはないです。もし僕の家族がサリン事件で死んでいたら、僕は個人的にもオウムに、麻原に復讐しているかもしれません」と答えました。そのときは会場中がどよめきまして、「ダブルスタンダードだ」と怒っている人がいっぱいいましたけれども、そこで、「ダブルスタンダードはあたりまえではないですか」と言いました。僕は今、非当事者であるから、映画をつくったり本を書いたりします。でも、もし僕の家族が殺されたら僕は当事者です。スタンダードが変わることはあたりまえのことです。僕が言いたいことは、なぜこの社会全般がその当事者の感覚を持たなければいけないのかということです。その当事者の感覚が正確かどうかということも含めての問題提起をしたいという答え方をしたのです。
昨年、『死刑』(朝日出版社)という本を発表しまして、やはり、同じような質問をされます。「もしあなたの家族が通り魔に残虐に殺されたら、あなたはそれでもその犯人に死刑を執行しないでくれと言えるのか」と。僕はこの四、五年で少し賢くなりまして、答える前に「その仮定をあなたは
自分に戻せますか」と、聞いたのです。つまり、「あなたの家族が通り魔に残虐に殺された。死んでしまった。その状況をリアルに想像できますか」と聞いて、そこで「うっ」と言葉につまる人もいれば「、当然だ、あたりまえだ」と言う人もいます。こういう場でしたら、要するに「被害者の気持ちを知れ」とか、「遺族の気持ちを知れ」とか言う方もいます。
でも、やはり、同じことを突き返したい。「本当に遺族の気持ち、被害者の気持ちをあなたはわかっているのですか。想像できるのですか」と。おそらく想像できないと思います。自分の愛するものが、妻や子が、両親が誰かに殺されて、今この世界に存在していない。その状況を本当にリアルに頭のなかで再現できるかどうか。おそらくできないと思う。
つまり、絶対にその思いは共有できない。もし僕が被害者、もしくは遺族であれば、死刑を求めるかもしれない。でも、それはその瞬間に僕は当事者になっているわけで、なぜ非当事者が当事者にならなければいけないのだろうかという疑問はずっとついて回っています。

 昨年、『中國新聞』という広島の地方紙に、コラムを少しだけ連載した時期がありました。ちょうどコラムが終わるころに、光市母子殺害事件の差戻審の判決がありました。みなさんはご存じのように判決は死刑です。当日、広島高裁に行った担当の記者がメールをくれました。彼の文章によれば、数百人、もしかしたら千人近い群集がそのときに広島高裁のまわりにいて、死刑判決とわかった瞬間に、彼のまわりの群衆たちが一斉に拍手、そして喚声、笑い声があがったそうです。彼はメールのなかで「人が一人死ぬと決まった瞬間に、みんなが喜色満面になって拍手をしながら大声をあげていることに、とても違和感を覚えた。ただ、その違和感は、たぶん自分たちメディアによって醸成されたものなのだろうということを考えました」と語っていました。
その群衆たちは残虐な人たちなのか、凶暴な人たちなのか。違います。では、彼らはなぜ拍手をしたか。なぜ笑ったか。おそらくは遺族の本村さんに「よかったね。お疲れさま」という善意です。特にオウムの事件以降、善と悪がどんどん二分化しています。自分たちは善です。そして、メディアの向こう側、テレビ、新聞の向こう側にいる犯罪者は徹底した悪です。その純度がどんどん上がっています。純度が上がっているから、罪と罰のバランスが崩れる。つまり、かつてであれば、例えば、人一人殺した場合に、十五年で納得できていたのが、今は納得できないのですね。悪が肥大していますから、もっと重い罰を与えなければいけないという厳罰化です。そうであれば、死刑が今増えているのはあたりまえです
しかし、光市判決で死刑が決まった瞬間に本村さんは笑いましたか。拍手しましたか。しません。できるはずがない。なぜなら彼は愛するものを失ったつらさ、苦しみを胸に抱えていますから拍手できるはずがない。でも、特にメディアによって、ある意味で喚起された危機意識を持っている群集はその深い悲しみ、つらさを共有できていません。表層にある応報感情だけを共有しています。
もし死刑存置の理由が被害者遺族の応報感情を晴らすだけのためにあるのであれば、被害者に遺族がいない場合にどう裁くべきなのかを考えてください。恨みを晴らしたいと思う人がいないのなら、罰は軽くていいのか。あるいは被害者遺族が重い罰を求めない場合も軽くていいのか。そんなはずはないですね。これはある特定の罪に対しては、決まった罰を与えるということを明文化する罪刑法定主義と近代司法を覆してしまう。つまり、応報感情を根拠にすることは近代司法国家としてはあってはならない。遺族が非常に過酷な状況に長年置かれてきたことは確かです。それは改善されねばならない。でも同時に応報感情だけを共有することはどれほどにこの社会を、逆に蝕んでしまうのかというところまで思いをはせてほしい。
あとは、やはり何と言っても、死刑を知るべきです。どんな制度なのか。どんな執行なのか。誰がやっているのか。どんな様子なのか。それを知って、なおかつもう少し、情と論理の両方を意識のなかに置きながら考えたら、もしかしたら、今のこの八一・五パーセントが死刑存置を支持という世相が少し変わるかもしれない。であれば、もしかしたら、制度も変わるかもしれないと思っています。
はたして、私たちは被害者に対して、加害者の死刑を望むべきではないということが言い切れるのであろうか。

 

一楽 最近、死刑を支持する声が七割、八割となるときに、今おっしゃった被害者遺族の感情、あるいは応報感情というところで、「こんなやつは死刑だ」という声がよく聞こえてくるわけです。それは、罪を法で定めると言うよりは、応報感情のほうが優先されているようにも見えてしまいます。そういう私憤を晴らすのはもともと国の刑罰とは言えないのではないのかと思います。

 司法は人間の営みです。どうしても感情が入ります。その感情をできる限り排除して、論理で決めようというのが司法です。もちろん、不可能です。不可能だけれど、それを目指そうというのが司法です。しかし、今は「ポピュリズム」です。
つまり、注目される事件の場合はメディアによって、ある意味で全国民が傍聴席に座っているわけです。つまり、ある意味で情感の塊である民意が望むところに裁判官も判決を出しますから、司法の場がどんどん情感の場になっている。そして、そこに裁判員制度を導入するのはどういうことかというのは、火を見るよりも明らかだと考えています。

大谷 「ペナル・ポスピュリズム」というよりものが非常に問題になりつつあるのですね。「ペナル」というのはペナルティーですね。「ポスピュリズム」というのは、大衆迎合主義です。つまり、大衆は常に厳罰を望むということです。その流れは私たちメディアがつくり出している部分が確かにあろうかと思うのです。それを私は現にメディアを含めて慎むべきこと、やってはならないことと考えています。
私は光市の事件の被害者である本村さんとも何回もお会いしました。まさに彼はこの一件に、これまでの人生をささげてきたようなところがあるわけです。「ペナル・ポピュリズム」があるから被害者に応報感情を抑えなさいということが、はたして適切なことなのでしょうか。
厳罰に処したからと言って、被害者のこころは癒やされないということは常にあります。しかし、私が被害者遺族の横に行って、「あなたは死刑を望むのはやめなさい。執行されても癒やされないよ」と言うことはできません。それは被害者の方が持っていらっしゃる固有の権利なのです。持ち続けていいのです。そのことと、光市の事件で、まわりで拍手していた人たちとは、峻別すべきことだと私は思っているわけです。
では、事件を解決した警察官たちはどうなのか。死刑が執行されたときに拍手していますか。喚声をあげていますか。被疑者が、被告人が死刑判決を受けたときには刑事たちは、これで被害者に対してやっと申し訳が立ったと喜んでいます。では、法務省から死刑執行の知らせが入ったとき、それを担当なさった刑事たちが拍手しますか。「彼もとうとう逝ったか」と言って、ほとんどの方が手を合わせていらっしゃるわけです。被疑者、被告人と向き合ってきた刑事のなかには揺れるこころがあるわけです。それと「ペナル・ポピュリズム」というのは峻別すべきことだと思います。「あなたはその感情を抑えなさい。我慢しなさい。そんなことで浮かばれないのだから」ということは、我々には言う権利はないのではないかと思います。あまりにも、それは傲慢な言い方ではないかと、私は常に自分に言い聞かせています。
また、私は死刑制度を廃止したら犯罪が増えるというのは大嘘だと思っています。ただ、私は社会には、基本的には防衛する権利がある。あるいは弱い立場の人たち、襲われたら何の抵抗もできない人たちのために、防衛する権利というものを持っていなければいけない。では、死刑を廃止して終身刑を置けばいいのかという論理になってきて、そこに対してはまた、私は別途反論があるのです。
ただ、先ほど森さんから出ていました冤罪の危険性というのが、必ずしも排除はできない。なぜ冤罪を生み出している温床に対してもっと声をあげないのか。そういうことを放置しておいて、なぜ先に死刑の存置を論議するのか。そこであらゆる危ない要素を排除してから国民が立ちあがって、そこからそれでも危ないのだから、死刑は論議しましょうというのが筋ではないかと思います。
こんな危険な状態をそのまま放置しておいて、いつ決着が出るともわからない死刑の存廃を論議することは、私は逃げではないかと思います。目の前にあることを解決すべきです。だから、私は裁判員制度に大賛成だけれども、現行は大反対と申しあげているのです。

一楽 危ない社会がいいと言う人は誰もいないと思います。本当に安心してお互いに傷つけ合うことのない社会を、みんな望んでいると思います。ただ、そのときに、「やはり、人のいのちを奪った者は、自らのいのちも奪われるべきだ」という、遺族の応報感情を尊重する大谷さんのご意見のあたりに、先ほどからお二人の別れ目があると思ってお聞きしていました。大谷さんは「ペナル・ポピュリズム」とは一線を引いておられるということでしたけれども、民意はだんだん、「この人は危ないから排除せよ」と動いていきやすい方向に、今あるのではないでしょうか。

 遺族が応報感情を持つことがいけないという言い方をする廃止論者が確かにいますよね。僕はそれは違うと思います。先ほど言いましたように、僕だってきっと応報感情を持ちますよ。きっと誰もがそうだと思う。それは善い悪いではなくて、人間が持っている本能的な部分であり、そういう気持ちになるのはあたりまえです。
ただ、もし仮に被害者遺族になった場合、特に自分の身内が強く応報感情を持っているときは、きっと僕はその応報感情を和らげようとすると思うのです。なぜならば、人が死ぬことを願う人生は、やはりどこか内側から、その人を蝕むと思うのです。その人にとってもつらい人生だと思う。なぜなら遺族は、応報感情に焦がれているだけではない。愛するものをなぜ自分は守れなかったのかと激しく自分を責めています。だからつらい。苦しい。そんな遺族に対して、そのつらさや苦しさを共有できていない多くの人たちが、表層的な応報感情だけに共鳴して、「早く処刑してしまえ」と声をあげている。ですから、そういう応報感情を持つことは、あたりまえだけれども、できれば、やはり違う視点も持ってほしい。
でも、今の社会状況はメディアを媒介にしてそういった和らげようという意識を誰も持てない。むしろ、その応報感情に一緒に乗っかってしまうという傾向がより強くなっているだけだという気はしています。民意とその「ペナル・ポピュリズム」について言えば、大谷さんがおっしゃるように、危険な人は排除すべきです。罪を犯したならば相応の罰を受けるべきです。あとはバランスを考えるだけだと思います。こういったことを考察するうえで、まず考えなければいけないことは、現在の治安への認識です。「体感治安」です。今、治安がとても悪くなっていると思う方はいっぱいいらっしゃると思います。実は、特に二〇〇七年は戦後において日本で殺人事件がもっとも少ない年でした。一番多かったのは一九五四年の三〇八一件、二〇〇七年度は一一九九件、これは警察庁が発表する殺人事件の認知件数です。ということは、人口の増減を考えたら、今はほぼ殺人事件の数が四分の一です。でも、メディアはほとんどこれを伝えません。むしろ、いかにも凶悪な事件が増えているかといった幻想を振りまいている。それによって体感治安が悪くなる。であれば、当然ながら「悪いやつはどんどんやっつけなければいけない」という世相は醸成されるわけです。そういった傾向のなかで今の「ペナル・ポピュリズム」がもしあるのであれば、きちんとデータを知ったうえで、もう少しクールに考えることが必要なのではないかと思います。

殺めてもいけないし、殺めさせてもいけない。もちろん、誰かに殺められてもいけない尊い「いのち」。

大谷 今、日本の殺人事件というのは、世界各国に比べて、親族間の殺人が極めて多いのです。これは悲しいかな年々あがってきているのです。昨年は五〇パーセントをついに超えてしまっているのですね。件数が上がってくる殺人事件というのは、ほとんどが身内なのです。同時にもう一つは、まったく縁もゆかりもない他人同士の事件です。
つまり、今、そういう両極端に分かれてしまっているのです。まったく縁もゆかりもないところで、いのちを奪われた方々の感情というのは、やはり私は無視できない。もちろん、社会防衛上、その人たちを死刑にしなくても、違う刑罰で考えていけばいいという方法が国民の合意としてあるのであればいいです。
オウム真理教の松本・地下鉄両サリン事件では二十人が犠牲となりました。サリンの撒き方いかんによっては、死者が千人、二千人になる危険性が十分にあったわけです。では、私たちは千人の犠牲者が出ても、二千人の犠牲者が出ても、犯人のいのちを奪ってはいけないということを決断できるのですか。その決断が社会に本当にできるのであれば、ずっと事件と向き合ってきた我々だって、考えをあらためなければいけない時期は来ると思うのです。
一楽死刑という制度は国が人を殺すという刑罰です。また、最近では死刑になりたくて縁もゆかりもない人を殺すという事件まで起こってきているということを考えると、人を殺してはいけないということを教えるのに、どうしたらいいのかと思うわけです。
死刑というかたちで、殺さないといけないのか。結局国が殺人をしてしまう、要するに、国の殺人ではないのかということをお聞きしたいわけです。

 「人を殺してはいけない。なぜなら、死刑になるから」という教え方を子どもにしたいと思う親はいないと思うのです。僕は子どもにそんな教え方をしたくありません。人に迷惑をかけたり、人が不快と思うことをやってはいけないよというだけですむわけです。であれば、子どもに対しては「いのちというのは尊いものだ。殺めてもいけないし、殺めさせてもいけない。もちろん、おまえだって誰かに殺められてはいけないのだ」と言うだけで十分です。死刑がそういったことを教えるためのツールとしてあるのであれば、それほど情けないものなのかと逆に思ってしまいます。

大谷 私たち人間というのは、非常に罪深いもので、殺生のうえに成り立っている部分もあるし、自らのいのちというのも、そういうことによって保たれていると思うのですね。ある意味で、他のいのちを奪って自分たちが生きているという部分があると思うのです。
また、私は人間というのは素晴らしい動物だと思うのですが、事件を担当していると、あらゆる動物のなかでこんなに愚かな動物はいないと思うことがあるわけです。殺人事件などは、人間の業や性が出てくるわけです。そのことによって人を殺めても、自分が救われるはずないのですね。しかし、人間は、それを犯してしまう。そのときに、あらゆる動物のなかで、私たちはいのちを奪っていながら、何をやっても許されるのか。どれだけ他者のいのちを奪っても許される存在なのか。そんな傲慢な存在なのだろうかと思うのです。自らの愚かさをあえて受け入れるべきではないのかなと思います。

 人は情けないぐらいに愚かなのです。そこはまったく大谷さんと同じ思いです。
べつに死刑を与えないことが許すことではないですね。いろいろな罰があるわけです。当然ながら、悪いことをした人に対して、いろいろな罰を与えるべきです。ただ、そこで決して遡及性のない、取り戻しができない死刑という制度を与えることが妥当かどうかということを問題にしているわけで、「許せ」と言っているわけではないですね。よく存置を支持する方は、廃止論に対して、「国家によっていのちを保障するのか」という言い方をします。いのちは保障されるものではないです。いのちは生まれるべくして生まれて、今、生きているものですよね。いのちは最初からそこにあるのです。
廃止論者は「生かして償わせろ」「殺すな」とよく言います。存置論者は「いのちをもって償わせろ」と言います。僕はどちらも間違いだと思う。人を殺したら、何をもってしても償えない。償いができないから、人が人を殺してはいけない。いのちは戻らないのです。それは事件であれ、死刑であれ、全部一緒です。いのちは絶対に損なってはいけない。まず、それを大前提にして考えていきたいと思っています。
大谷今、国会で「死刑を廃止しろ。その代わり終身刑を設けようではないか」というようなことが出てきているわけですね。それに対して私は、終身刑というものは、はたして残虐な刑罰ではないのかということの論議を一つしていかなければいけないと思うのです。
先ほど極端な例として出したように、千人も二千人も殺害するとか、あるいは「刑法」のなかで国家転覆というのは死刑が適用されているのですね。そういうことに関してだけ死刑を残そうではないかという論議もあるのです。そんなことを言い出したら、私は終身刑という新たな刑罰を一つ増やすだけではないか、死刑を完全に廃止しなければ意味がないではないかと思います。死刑廃止の論議のなかで、声明を出される方々、主張をなさる方々は、新たな刑罰の新設を望んでいらっしゃるのですか。そのことによって、死刑を廃止することが担保されていくのですかということも、私はあらためて問いたいですね。
一楽存置派の「いのちをもって償え」と廃止派の「生きて償え」のどちらも間違いで、その罪というのは、決して償えないのだということが非常に大事な確認点だと思ってお聞きしました。

一楽 量刑となると、どうしても罪までも分量ではかってしまって、一応償ったことにするという話で終わらせていく一面があると思うのです。どの罪もそうなのでしょうか。一応量刑ではかっていますけれども、傷つけたとか、人を踏みにじったとか、そういうことは一生抱えていくほかない、償えないものなのでしょうか。

 殺人に限らず、ほとんどの犯罪はその被害者がいて、遺族がいるわけですから、そういう意味でいかに罪を犯した人が、例えば、刑務所のなかで、有期刑で贖罪して、更生したとしても、それが遺族に伝わらないことには意味がないですよね。伝えることが一番大事な償いだと思う。ということは、殺めたいのちは戻らないという意味での「償い」はないけれども、できることは遺族に対して、どうケアができるのか。自分の反省の思いを伝えられるのか。それによって遺族が癒やされるかどうか。場合によってはたぶん癒やされない遺族もいると思う。それはケース・バイ・ケースだと思います。やはりひと口で「償い」とは言えないですね。その人によって、その事件によって、犯した人が考えて、模索して、泣きながら手探りでやっていくしかないでしょうし、そこのなかで「償い」というのが、もしかしたら出てくるのではないかと思っています。

罪あるいは罰というこうことに、私たちが関わることによって、 もっと悩まないといけない。

大谷 死刑というのはいのちの問題ですよね。それはやはりいのちを奪った事件と相対で考えていただきたいと思うのです。つまり、死刑と無期とか有期というのは、基本的に同じ刑罰とは言い難いぐらい雲泥の差があるのです。
飲酒運転を見てください。厳罰化によってどれだけ減ったことか。厳罰化しなければ、人間は飲酒運転をするのですよ。「これだけの刑罰を受ける」ということによって抑止できることと、「なぜ人間は愚かにもいのちを奪うのだろうか。そして、私たちはそれに対してなぜいのちを奪わなければいけないのか」ということを、ごちゃごちゃにして論議をなさる方がかなりいらっしゃるのですね。死刑というものを厳罰化の行く末としてあるものとしてとらえることは、私は間違えていると思うのです。

一楽 いろいろなかたちで罪が犯されるようになってきた。そのことを大谷さんは人間が劣化してきたというようなことを本に書いておられました。今の話で言えば、厳罰化しないと、そのことの大きさに気がつけない。それもある意味では劣化の一つなのでしょうね。自覚的にそのことを抑制できずに、罰を与えられないと自分の行動を抑制できないという一つの劣化のかたちなのでしょうか。

大谷 マナーなどと法律は、私は違うと思うのです。ただ、本来は法律などをつくる必要のないことまで全部、法律でつくっていかなければいけない国というのは情けないと思うのですね。
法律は少なければ少ないほどいいわけです。本来、法律でしばらなくてもいい国の方が幸せなわけです。そのことを非常に誇りに思ってきた国だったのではないかなと思います。
最初に申しあげたように、死刑をなくすということであれば、もっとみなさんもシステムをチェックしてください。この国というのは大きく劣化しているわけで、そこを正したうえで、この一番人間の尊厳に関わる死刑制度も論議しましょう。
一楽どうすれば劣化した国を正していくことができるかということを、先ほどから、森さんにも人間の愚かさということで提起していただいたわけです。その愚かさを抱えたものがどう生きていくかというときに、今の流れは情けないけれども、罰を与えないと飲酒運転が減らないという例もあったように、人間の生き方を正していくというようなことをどう考えたらいいのでしょうか。

 社会学的に信頼型社会と安心型社会というふうに分けるという考え方があるのですね。日本社会というのは安心型社会なのですね。そして、欧米はほとんど信頼型社会です。
欧米の場合は、信頼という互いの人間のきずなを規範にしていると同時に、ある意味での何らかの畏怖なる存在が自分に対して規範になっている部分があります。
日本の場合は体系化された宗教が希薄です。そういった部分が希薄ですから、代わりに何を当てはめるかと言うと、罰なのですね。罰を与えられるから、これをしてはいけないのだという部分が伝統的にあるのです。
劣化する社会をどういうかたちで変えていけばいいのかというのは、単純に宗教をどうするかというだけではないと思う。日本人の場合、もし宗教心というものが希薄であれば、それに取って代わるものが何かあるのかどうかという議論が、本来もう少しあったほうがいいと思います。
だから、今のこの社会は管理統制をみんなが待ち望んでいるのです。つまり罰です。危機管理意識があがって、他者が怖くなってしまったのです。であれば、大きなものに守ってほしい、イコール管理してほしい、統制してほしい。これは日本人の習性ととてもよく合います。その部分が今とても暴走しています。ということは、逆に権力の弾圧というのは、最初からあったわけではない。僕らがそれを望んでいるから来るわけです。それによって統治されながら、何か統治されることの不自由さも感じ、たまに愚痴っている。それは自分たちが望んだ結果である。要するに民意です。民意というものは、やはり、この社会をとても色濃くかたちづくっているというところは言えると思います。
一楽自分たちでどうにかするというよりも、どんどん国に管理してもらおうというふうに進んでいると思います。監視カメラの問題などもそうですね。お互いが初めから不安で襲われるのではないか。監視カメラをつけていくことについてあまり拒否感がない。だから、自分たちの生き方としての問題ではなくて、誰かに管理してもらおうという流れがとても強いように思うのです。裏を返せば、どんどん、お互いを疑心暗鬼で見るというような関係が育っていくわけですよね。

 

 善悪二元化がどんどん進行しているわけですよね。人が人を恨みや利益、欲望で殺す場合は、やはり、数人が限界です。
しかし、恨みとか欲望とか利益という私怨ではなくて、善意、正義、大義、これが念慮になったら、人は人を際限なく殺します。摩擦がはたらかないのです。戦争、虐殺もそうです。だから、むしろ悪意は、摩擦がはたらきますから、ある意味で止めやすい。でも、善意の場合は暴走してしまう。
気づいてみたら累々としかばねが横たわっているということは、歴史的に人間は何度も重ねてきているわけです。そのあたりはもう少し歴史意識を持ちつつ、大局観も持ちつつ、現状を分析する。そのあたりをメディアがもう少しきちんとやるべきだと思っています。

大谷 私は死刑を存置と言い続けているわけですが、これは国家と言うより、私たちの社会の共有の権利として持つべきだと思うのですね。もちろん、執行するのは、国家機関であるわけですけれども、裁判員制度のなかで国民が裁判に参加することになれば、死刑も言い渡さなければならない。その負担は重いだろう。
ただ、今まで死刑が執行されているのを見てきている国民が、いざ自分たちが裁判員制度に参加することになったら、荷が重すぎるだとか、人のいのちを奪うことになるのだというのは、ただ単に直視していなかっただけではないですか。私たちは制度としてそれをやってきたわけですよ。職業裁判官が言い渡すのはいいのか。職業裁判官は国民が税金で雇った裁判官ですよ。彼らに言い渡しをさせていたということは、間接的に私たちは言い渡していたのではなかったのかと思います。
そのことを我々は固有の権利として、自分たちのものとして、本当に持ち続けなければいけないのか。手放すべきなのかということを論議するべきだと思うのです。そのことと、今、我々の言論界を含めて、極めて国家統制が進んでいるということとは相対するものだと思うのです。逆に私たちがそれを手にすることによって、よけいな締めつけだとか、あるいは国家による関与だとかいうものを排除していく。そのことと、国家に関与をさせないために、自分たちの手で手放すべきなのか、中止すべきなのか、持ち続けるべきなのかを裁判員制度のなかで考えるいい機会が来ていると思うのです。だから、こういうかたちで、みなさんと一緒に考えられる機会ができているということを大事にしたいと思うのです。

人を殺してはいけないということを教えるために、あなた方はなぜもう一ついのちを奪うのか。

 裁判員制度については、もう始まっていますから、反対だ、賛成だという次元ではないですが、法務省、最高裁が発表している裁判員制度導入の理由、理念は市民感覚を法廷に入れるということです。これを言い換えれば、プロの裁判官は市民感覚を持っていませんということです。であれば、まず裁判官にどうやって市民感覚を身につけさせるのかを考えるべきです。順番が違います。

 

 また、メディアによって今、十分に市民感覚が入っています。全国が傍聴席になっているのです。これ以上市民感覚を、つまり情感を法廷に入れてどうするのだろう。その必要はまったくないと、僕は思います。
次に義務です。「憲法」では、納税、勤労、教育の三大義務があります。ただ、勤労、教育は罰則がないですね。納税もいきなり罰則ではないです。ところが裁判員制度の場合は出廷しない、もしくは守秘義務違反は罰金もしくは懲役というとても重い罰則が与えられている。つまり、戦後一番重い義務を与えられたわけで、与える方も与えられる方も、義務をあまりに軽く考えすぎています。義務というのはそんな安易なものではないと思います。
さらに、裁判員制度は一審だけです。二審、三審では裁判員は入れず、検察官は不満であれば、すぐに控訴してしまえばすむだけのことです。よく比較に出されるアメリカの陪審員制度は、もし陪審員たちが無罪と決めたら、検察はもう控訴できません。あるいは陪審員制度の場合、被告に陪審員の裁判を受けるかどうかの選択ができます。日本にはそれもない。
いろいろな意味で未整理です。何よりも死刑です。つまり、日本は歴史上初めて、死刑にするかどうかを国民が決めるという状況になったわけです。
今、刑事司法は最悪の状況です。これ以上壊れようがないぐらいに壊れていますから、その意味では、裁判員制度がカンフル剤にならないかなと思います。どうしようもない制度ですが、同時にその制度を導入する刑事司法もどうしようもない状況なのであれば、「毒をもって毒を制す」ではないけれども、もしかしたら裁判員制度が、いい方向に向かうような気付け薬になる可能性がまったくないわけではないと、今、一縷の望みを託すしかないかなと思っています。

大谷 私はこの裁判員制度に基本、大賛成です。今でも日本は三権分立の国であるわけで、立法、司法、行政とあるわけです。立法府は、必ず私たちの選良によって成り立っているわけです。行政機関というのは、市長をはじめとして、各自治体、あるいは議院内閣制ですから、我々の選んだ議員が内閣を構成する。つまり、行政府というのは我々が選んだ議員がやっている。
そのなかで、司法だけがまったく私たちは蚊帳の外だったわけです。三権に国民が参加してこそ、民主主義国家が成り立つはずですから、私が大賛成というのは、やっとこれで日本は国民がすべてに参加できる国になったということにあるわけです。
そこから先が大きく狂ってくるわけで、なぜ対象が凶悪事件なのだということになるわけです。国民が国を訴える、国民が行政を訴える、あるいは公害訴訟などから国民が参加していきましょうというのが、本来のあり方だと思います。でも今、森さんがおっしゃるように制度がスタートしてしまった。では、なぜ取り調べをすべて録音、録画しないのか。我々がこれから参加するのだから、そこを録画しておいてくれなかったら、たった三日、五日では判断できない。菅家さんも逮捕されてから最高裁の判決が確定するまで三年かかっている。これを五日間ほどでやってしまおうと言っているときに、誤りを犯さないために、全面可視化しなさいと言いたいです。
このままの制度で国民に参加させるというのは、私は心情的に今の段階では信じられないです。少なくとも、変更するべきだと思います。現行の裁判員制度というのは本来国民が望んでいた制度から見れば、本当に似て非なるものです。

 取り調べ可視化と再審制度整備は大前提です。問題は隠されているわけではないのですよ。僕らが見たいと言えば、当然情報公開します。だけれども、僕らが見たいと言わないから隠すわけで、国民が、この死刑という制度から目をそらしてきたからです。裁判員制度が始まって、お尻に火がついたようなかたちで、死刑を考えないといけないというのは、僕にとってはある意味でとても不健全に見えます。
でも、どんなきっかけであれ、目が向くのであれば、それによっていろいろなものが変わってきますから、それは間違いではないと思います。

一楽 罪あるいは罰ということに、私たちが関わることによって考えていく。さらに言えば、もっと悩まないといけない。今までは関係のないところに置いていたということがあるように思います。このたびの裁判員制度導入で、否応なしに突きつけられてきたわけですよね。そのときに、自分たちはその犯罪というところから、ある意味で遠いところへ行って、そんな悪人になるはずはないというような立場で、「お客」になっていたわけですけれども、それが自分たちに本当に関わるというところで、否応なしに考えさせられる。これを大事な機会にしなくてはならないということを感じます。
宗教に期待することがあれば、ひとことおっしゃっていただけないでしょうか。

大谷 いろいろな事件があると、一斉に各新聞社やテレビからコメントの依頼がきます。精神科医だとか、犯罪学者だとか、あるいは少年犯罪の専門家。もちろん、私ごときでお役に立つのであればお話をするのですけれども、本来はそのトップに宗教者が来なければおかしいと私は思うのです。一つの規範、言うなれば芯になる部分というのが大きく抜けてしまっていると思うのです。本当に日本人の多くが、こころの依り処としてきている宗教が、こういう問題に、もう一歩踏み出してくださっていいのではないかと私は思っています。
四十年間も人の生き死にと関わり合っていると、少しぐらいの結論がだんだん見えてくるわけです。それは私たちの社会というのは、どんな社会が一番素晴らしいのだろうかということです。大金持ちがいいのか、とんでもない軍事力を持っている国がいいのか。私はそんな国が幸せだとは思わないのです。その基準はどこにあるかと言えば、そこにある一つ一つのいのちが、どれだけ大事にされているかということに尽きると思うのです。そのようななかで、死刑という〝いのちを奪う制度を持たざるをえないのかどうか。もっといい方法があるのか。
いずれにしても、廃止するのも存続していくのも、国家ではなく、私たちの手が今握っているのだということを、宗教者の方々を含めて考えてみたい。それが裁判員制度というなかで考えられるのであれば、それは意味があったことではないかと思います。
最初に申しあげた、「人を殺してはいけないということを教えるために、あなた方は、なぜもう一ついのちを奪うのですか」ということに対する答えを、いずれみなさんと出せたらいい。それまでは、やはり悩み続けるしかないと思っています。宗教者の方を含めて、本当に向き合って、これからも悩み続けていきたいと思っています。

人間は許せる存在であり、許される存在なのだ。

 日本は四年前の内閣府の調査で八一・五パーセントが死刑存置を支持。六パーセントが死刑廃止を支持。やはり、この数字はおかしいです。この偏りには何があるのか。みんなが死刑をきちんと認識できていない。宗教観が希薄であることが要因となって、生きるうえでの不安が強いことはあるかもしれない。あるいは、危機管理意識が見えないので、これだけ倍加していることなど、いろいろな要素があると思います。
だから、完全に廃止、存置に凝り固まることは、僕は逆に怖いと思います。でも同時に今のこの時期、日本の状況は少しおかしいということも、意識に置いたほうがいいと思います。
宗教と死刑について、僕はイエス・キリストの磔を考えます。彼がなぜ十字架に磔になったのか。彼はベツレヘムで生まれたユダヤ人です。ユダヤ人は長く被虐の民でした。他民族から常に弾圧され、迫害され、国を奪われ、土地を奪われ、そこで、きっとこの人は自分たちを迫害する敵をやっつけてくれるヒーローだ、救世主があらわれたということで、全民族がイエスに期待するわけです。
ところがイエスが「山上の垂訓」という一番有名な説法で「敵を愛せ」、「罪を許せ」と言ったのです。そこで激しく民衆は失望します。当然そこに自分たちを否定された
旧ユダヤ教の高僧たちの報復もありましたが、最終的にイエスを死刑にしようと決めたのは民衆です。ローマ総督ピラトが民衆に、「このものをどうするか」と聞いたときに「死刑だ、死刑だ」とみんなが叫んだわけです。そしてイエスが死刑になった。
被虐と加虐は簡単に連鎖します。簡単に転換します。だからこそ、被虐を考えることも大事だけれども、加虐する側についても思いを馳せねばならない。被虐だけで、つまり被害者意識だけで固まってしまっては、絶対に報復に連鎖します。
イエスだけではない。間違いなく、ムハンマドもブッダも、応報は否定しています。ブッダは有名な、「殺すな、殺させるな」ということを言葉どおり体現しています。そもそも宗教というのは、そういう存在です。敵討ちを肯定する宗教なんてどこにもない。
僕は「許し」というものは、一番聖なる感情だと思う。ある意味で、その「許し」をみんなが求めるが故に宗教というものの存在意義があるわけですから、人は人を許せるのだと思います。これは押し付けるわけではないですよ。でも許せる存在であり、許される存在なのだということは、特に宗教というものを考えたときに、常に意識において考えるようにしています。
特に真宗がそうです。親鸞聖人は「真・仮・偽」など、いろいろな言葉で二項対立を徹底して否定している。「悪人正機」はより明らかで、そういった教えを、もっともっと声を大にして訴えてほしいと思っています

一楽 何よりも私たち自身が見つめて、そして考えないといけないという提起をいただいたように思います。知らず知らずに死刑があることをあたりまえのことに思い、死刑で亡くなっていく人がいることを容認しているような部分があったと自分でも思います。
犯罪をなくそう、そして、犯罪が起こらないようにどう人を育てていくかという話が先行せずに、起こった場合にどうするかという話ばかりで、どんどん不安をあおるようなことが、厳罰ということで進んでいるわけです。
私たち自身が、日本に生きているということをどう考えるか。直視して考えるという課題をいただいたと思います。本当にもっと悩む必要があるということを、お二人から教えていただいたように思います。(了)

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