法話「なぜ念仏なのか(3)」 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2019年10月24日

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なぜ念仏なのか(3)

法話「なぜ念仏なのか」

古田和弘氏(九州大谷短期大学名誉学長・大谷大学名誉教授)

み名を呼ぶ念仏へ

この道綽禅師のお弟子に善導(ぜんどう)という方が出られました。善導大師は、「念仏」についての決定的な指針をお示しになったのです。念仏とは、口に「南無阿弥陀仏」を称えることであると教えられたわけです。

もともと「念仏」というものは、口に「南無阿弥陀仏」を称えることではありませんでした。古い時代から「念仏」の教えは中国に伝えられていましたが、それは「観想念仏」というものだったのです。「観想」は、心を静かに一点に集中して、ひたすら、阿弥陀仏のお姿や浄土の有様を心の眼で観察し、それを心に念じ続ける修行なのです。その代表的な行法は「念仏三昧」という行であります。一切の雑念を払い捨てて、一心不乱に、心を静かな状態に保つのです。それによって、通常では起こり得ないひらめきのようなものが起こるのだそうです。つまり、本来の「念仏」は、仏を心に念ずる修行なのであります。

その「念仏三昧」には、色々な修行の方法がありますが、その代表的な行が「常行三昧」という行なのです。これは、九十日間、心を無念無想の状態に保って歩き続けるのです。そして、その静かな心の中で阿弥陀仏と阿弥陀仏の浄土を念じ続けるのです。それが「念仏」という「行」だったわけです。

この行は、先ほどの「六波羅蜜」の行に比べると易しい行だったようであります。つまり、「六波羅蜜」の行ができない場合は、このような「観想念仏」でもよいとされているのです。その「観想念仏」の代表的な修行が「常行三昧」なのですが、しかし、これも、誰にでもできることではありません。よほど体力があって…

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