真宗の終活 3-(1) 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2025年04月11日

Category 終活

真宗の終活 3

 

 

●「自分らしい終活」から、‟いのち”に立ち帰る終活へ

 「自分らしい終活」という言葉を時々見かけるようになりました。自分に相応しく、自分の望むかたちで最期を迎えるための準備ということですが、私は終活とは、自分に立ち帰ること、更に言えば、‟いのち”に立ち帰ることから始まる、と考えています。

 自分に立ち帰るというと、少しあらまったことのように感じられるかもしれませんが、むしろ日々の気分転換の時など、ふと自分に気が付くことがあります。たとえば自分のお気に入りの場所をお持ちではありませんか。役割や立場を離れて自分に向き合える場所は、自分自身に帰ったような思いになれる場所です。そんな時と場所を持つことも終活の過程の一つにあたるのではないかと私は思います。

 私のお気に入りの場所は、街の外れの大きな川の河川敷です。人生の節目を前にして、どうやって乗り越えていくかと考えていたのです。

 思えば、受験・就職・結婚…というようなことが上手く運ぶために、対策や準備を勧めるガイドブックやマニュアル本が出始めたのは、ちょうど私の世代がそれぞれの時期に差し掛かった頃でした。「〇〇の達人」「失敗しない〇〇」といったタイトルに惹かれて手に取り、買って読んだものです。

 懇切丁寧な解説を読み、それをもとに思案したものの、それで解決とはならないで、河川敷で長い時間佇んでいたのはどうしてでしょう。

 悩みや迷いの本質はいつも自分の中では「同じところ」だったと、今にして思います。出来事そのものよりも、身に起きる出来事と自分がどう向き合うか、その向き合い方に悩み迷っていたのでした。

 終活を考える年齢になった私は、これまでのガイドブックやマニュアル本を手にしてしまう習性からか、新聞の週刊誌の広告欄の、「『老後の対策』でやってはいけないこと」「後悔しない相続」「失敗しない、葬儀とお墓」などの見出しに目が惹き付けられてしまいます。

 人の老後の暮らしぶりや亡くなり方を見て、「あんなふうに老後を過ごせたら」「あの方のように亡くなることができたら」と憧れ半分に思うこともあれば、「あのような老後はつらかったろう。早く検査を受けていたらよかったのに…」「あのような亡くなり方は本人も家族も気の毒だ。自分は、そうならないようにしなくては」などと、老い方や亡くなり方まで、これまで同様に「成功と失敗」でとらえています。

「納得いく最期を迎えたい」

 それが、終活を始めようとする思いの底にあることだと思います。自分に「これでよし」と頷けて、落ち着けること、と言ってもよいでしょう。それが目的であるにもかかわらず、‟いのち”の終え方にまで成功と失敗のレッテルが貼られることに縛られては、いつまでも落ち着かないものです。

●亡くなり方の善し悪しをいわない

 自分の思い描く最期を迎えることは、いつの時代も大きな関心事だったのでしょう。親鸞聖人の生きた時代は、戦乱や災害が相次ぎましたから、なおのことだったと思いますが、門弟への手紙で親鸞聖人はこのように語っておられます。

 「なによりも、こぞことし、老少男女、おおくのひとびとの、し(死)にあ(合)いて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信※が身には、臨終の善悪をばもうさず」※親鸞聖人のこと(『末燈鈔』真宗聖典 初版603頁 2版738頁)

 <意訳>「何にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いで亡くなられたことは、悲しいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来のお説きになられたことでありますから、驚かれることではありません。まずわたくし(善信)といたしましては、臨終の善し悪しは申しません」 

 文中の去年と今年は、諸国に飢饉がおこり、疫病で多くの方が亡くなられた年だったようです。

 悲しい思いを語られますが、「ただし」とおさえられた上で、亡くなり方の善し悪しは申さない、とはっきりとおっしゃっています。

 亡くなることは、「生死無常のことわり」。すなわち、生あるものは死をさけられないのが‟いのち”の道理であるから、と示されます。

 そのとおりでありますが、一見、冷たい印象をもたれかねません。

 しかし、‟いのち”の道理をたしかめることこそが世間の価値観を越えた大きな慈しみの眼差しであり、自分に納得できる歩みの方向を指し示すことだと、私は受け止めています。それは、こんな出来事があったからでした。

 

●人生を思い描く、その裏に

 それは、健康診断の結果が示されたときでした。精密検査を受けることになり、結果的に問題は無かったのですが、精密検査の結果を待つ間に、万が一を想像し、様々なことが頭をよぎりました。結果次第では、これまで頑張ってきたことが意味を失うように思えたのです。

 前述の~人生の節目を乗り越えるためにガイドブックやマニュアル本を買って読み、「準備を早くから、怠りなくおこない、努力して、頑張って」やってきたこと~は何のためだったのかが、問われる思いでした。

 そして、不安の中で脳裏に浮かぶ顔があるのですが、その顔とは、私にとって「あの人には負けたくない」「あいつのようには振舞いたくない」と思っている人の顔でした。普段は意識しませんが、そんなふうに心の深いところで思っていたのです。頑張ってやってきて「まあまあ、あいつよりは、少しは上回っただろう」と思っていたのでしょう。万が一の事態になって、「あいつ」より人生が早く終えてしまったら、あの頑張りは何だったのかということになってしまう。つまらないことを競うのではなかった…と、検査結果が出る前から、少し悔やみました。

 取り越し苦労と言ってしまえばそれまでですが、自分の振る舞いの動機が何であるのか、自分の足元がどうであるのかを知らされた出来事でした。自分のやってきたことを、自分自身が「これでよし」と言えないことほど苦しいことはないのではないか。大げさな言い方になるかもしれませんが、死ぬに死にきれない、とはこういうことなのかと、垣間見た思いでした。

 そして、もう一つ、「あいつより早く人生が終えてしまったら」と悔やむ自分に、自分の‟いのち”までも、ガイドブックやマニュアル本で「傾向と対策」を把握して対処するかのようにとらえて、「成功と失敗」すなわち「善し悪し」で見なしていたことに気付かされました。

●「ほんとう」のこと

 親鸞聖人は『末燈鈔』で、続けて次のように語っておられます。

 「信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり」(『同』真宗聖典 初版603頁 2版738~739頁)

 <意訳>「信心の定まった人は疑いの心がありませんから、必ず浄土に生まれる身と定まっているのです。だからこそ愚かで無智な私たちであっても心安らかに亡くなっていくことが出来るのです。如来の御はからいによって往生するのだと人々が申されましたことは、少しも間違ったことではありません」

 「信心の定まった人は疑いの心がありません」とは、「ほんとうのこと」を認め、疑いなく、これでよしと頷けることです。ここで言う「ほんとうのこと」とは、「ほんとうはわかっていた」「ほんとうは認めたくなかった」というときの「ほんとうのこと」です。疑いなくとは、「ほんとうは、これでよかったのだろうか」という疑念が浮かばぬことです。目に見える形としては上手くいったのだけれども、どこかひっかかる、あるいは、むなしい、というような思いが残らぬ歩み方です。

 河川敷で長い時間佇んでいたのは、「どうすればよいか」は、うすうすわかっていながら、「相手より優位に立ちたい」「自分の判断が正しかったと思いたい」などと、「ほんとうのこと」を認めることにためらい迷っていたからなのでした。

 「浄土に生まれる身と定まっている」とは、私の受け止めを端的に申せばですが、「浄らかな眼で見た世の中の在り様(「ほんとうのこと」)を受け取って生きる。その歩みを始める方向が定まった」ということです。

 「如来の御はからいによって往生する」とは、如来とは文字通り「如(ほんとうのこと)」が「来(はたらきかける)」です。事実に「ほんとうは、こうだったのではないか」と気付かされ、頷けたら、歩む方向(往生)がおのずと定まるということです。

 自分自身に頷ける歩みとして、ある門徒の方が残された言葉を思い出します。

 「やり残したことはたくさんあるが、思い残すことはない」

 亡くなる少し前にそのように語っておられたとご家族からお聞きしました。生前に何度かお会いしたことがある方でしたが、若い頃、不本意なかたちで転職せざるを得なかった経験があり、また、その後も健康状態はあまりよくなかったため、思いの叶わぬことも多かっただろうと見受けられました。余命を宣告され、私よりひと回り上ほどの歳で亡くなられました。知らせを聞いた私は、「さぞや悔しかっただろう、思い残すことが多かったろう」と思ったのですが、残された言葉は意外なものでした。

 思い残すことが無かった訳ではないでしょう。けれども、「思い残すこと」が無くなる方向を目指して歩まれたのではないか、と思うのです。「ほんとうのこと」から目をそらさぬ歩みをされたのではないか、ということです。

●みな死ぬる人と思えば

 最後に、私にとって、終活において人や自分とどう向き合うかを教え示してくださる言葉を紹介します。

 「みな死ぬる  人とおもえば  なつかしき」(「なつかしき」『念佛詩抄』木村無相)

 これは、生い立ちから困難の続く日々を経たのちに、真宗の教えをよりどころとして歩まれた方の言葉です。

 先ほど、私が検査結果を待つ間のこと。私の頑張りの裏に「あの人に負けたくない、優位に立ちたい」という思いがあり、そのように人を見なしていたことに気付かされたと申しましたが、いつかは終える‟いのち”ならば何を競う必要があったのかと、以前にどこかで聞いた木村さんの言葉を思い出したのです。

「なつかしい」とは「懐かしい」と書きますが、昔を思い出すことだけではなく、「子どもが懐く」というように、いとおしい感情も表します。

私にとって木村さんのこの言葉は、相手に対しての感情だけではなく、「みな」の一人である自分への眼差しも感じるのです。みな死ぬるの「みな」である「その人その人」には様々な境遇があります。その「みな」にいとおしい感情を抱くことは、相手のみならず自分もまたどのような境遇に置かれても認めていける眼差しをいただくことに通じると私は思うのです。

「生あるものは死をさけられないのが‟いのち”の道理であるから…」という親鸞聖人の言葉を、「みな死ぬる等しい‟いのち”としての人」であると表されたように思えます。世間一般の価値観としての亡くなり方の「善し悪し」から解き放っていく。そんな大きな温かさを感じます。

これからも私は、迷い悩むそのたびに、お気に入りの場所である河川敷に佇むことでしょう。役割や立場を離れて自分に帰れる思いのするひと時は、私もまた「みな皆死ぬる」の一人であることに立ち帰り、「ほんとうのこと」を尋ねる時でありたいと思っています。

‟いのち”である自分に立ち帰ってこそ、あふれる終活の情報から、選ぶべきことが見えてくるのではないでしょうか。

柴田 崇(しばた たかし)

 

<プロフィール>

1970年(昭和45年)生まれ。

社会福祉法人に8年間勤務を経て、

現在、明行寺住職(長野市)、真宗会館教導。

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