真宗の終活 2-(2) 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年11月01日

Category 終活

真宗の終活 2-(2)

 

 

●浄土真宗

 浄土真宗とは、浄土の真実を宗(よりどころ)に生きるという意味である。仏さまのさとりが、形になってくださったのが浄土である。浄土は大地に譬えられる。大地は善人も悪人もそのまま黙って支えている。その確かな大地に足をつき、仏様の真実を求め続けられたのが親鸞聖人である。

 人間は、真実を知らないから、不安であり、何をやっても満足がない。特に、現代のように情報過多のなかでは、何が真実で、何が虚偽なのか分からなくなっている。

そして人間は、一旦、満足したとしても、その満足が薄れてゆく。気がつけば、是では駄目だ、もっとと理想を追い求めてゆく。そうやって自分の人生に真面目に生きていない人はいないだろう。しかし、それはきりがない。だから、仏様は、真面目さゆえに迷っているという。その人間の真面目さを無明(真実に暗い)という。その無明に光を当てるのが、真実であり、真実によって開かれた道を浄土真宗という。それが真の大地である。

●迷惑を懸けなければ生きていけない

 人間とは、書いて字のごとく、人と人との関係を生きる存在である。関わり合い、つながりあって生きている関係存在である。その関係性の自覚と再構築が、仏教の課題である。世間では、あちらを立てれば、こちらが立たない。そういう矛盾の中で右往左往している。矛盾が、なぜ起きてくるのかと言えば、お釈迦さまは、「我執(われあり)・我所執(わがものあり)」によって、いつでも自分を中心に立ててゆくから矛盾と、苦しみがあるといわれる。

 本来は、関係性の中で生かされているにもかかわらず、自分の思い通りにしようとするから、矛盾や軋轢が生まれるのだ。生と死も関係性だ。本来、生まれたならば必ず死を迎えなければならない。死がなければ生はないし、生がなければ死はない。それを、生と死を別々なものとして考えて、生は善、死は悪として避けようとするかから、矛盾が生まれるのだ。そして、単体で、何ものにも関係せずに存在しているものはない。

 この教えをよく考えてみると、迷惑をかけるとか、何事も全部ひとりで済ますとか、あり得ないことだ。迷惑をかけずに自分一人でやってゆくことを否定しているわけではない。どうしても、一人で生きてゆかなければならない事情もある。しかし、なるたけ孤りで頑張るという考え方から自由になってはどうかと思う。

 今の若者は、未来のお年寄りであるし、赤ん坊は親の介助なしには育ってゆかない。皆それぞれ、お互い様の中で、迷惑をかけざるをえない。それが、仏様の真実に照らされた「いのちの事実」である。

 終活という言葉が受容された背景には、社会情勢の変化とそれに伴う不安が見えてくる。

そんな時代だからこそ、先ず、いのちの事実に出あうのが大事ではないか。その事実に出あわない限り不安と空しさと孤独は、いつまでたっても尽きないのではないか。いのちの事実に立って、右往左往するのか、そこに立たずに右往左往するのか。右往左往することは違いないが、仏教は前者を安心(あんじん)と教えている。

 老いること、病気になること、そして死ぬことは、誰しもが免れられない。だからこそ、その「老病死」に向き合って、生きることを改めて確かめてゆくことが大事なのである。

 真宗の終活という方法はないと言ったが、浄土真宗を生きた先人たちの足跡はある。その足跡に、自身が、どのように生きてきたのか、そしてどのように生きてゆくのか、を尋ねてゆくのが、終活を通した宗活であると考えている。

●出発点をみいだす

 宗活とは、これまでどう生きてきたのか、そしてこれからどう生きてゆくかという出発点をみいだしてゆくことだ。何を大事してきたのか、そして何を大事に生きてゆくのか、また、本当に、自分は出発していたのか、老病死から問われているのである。

●出世の大事 お釈迦様の一大事

仏伝によると、若き日の釈尊は、いかに不自由なく贅沢な暮らしをしていていたかを、弟子たちに語り、出家の動機を次のように述べられている。

比丘たちよ、わたしはこのように恵まれており、このように細やかな心遣いをもって養育されたのだけれども、次のように考えた。

 世間の愚かな人々は、おのれ自身、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い・病い・死を見て、あざけったり厭ったりしている。わたし自身もまた、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられる身でありながら、他人の老い・病い・死を見て、あざけったり厭ったりすべきであろうか。これは正しいことではない、と。

 わたしはこのように考えて、青春に対する空しい誇りと健康に対する空しい誇りと生存に対する空しい誇りをすべて棄てた。

 若さと健康と生存に対する空しい誇りと述べられている。いままで、老いること病むことそして死ぬことは、自分と関係がない他人事として考えていた。しかし、老病死は必ずこの身におこってくるものであり、それに対するあざけりや厭っていることは、虚しい誇りにすぎなかったと述懐されている。

 老病死とは、事実であり、他人事ではないと教えられている。目前と迫った死に対しては、ぜいたくな暮らしぶりや、若さや健康などは、空しい誇りでしかない。

 むなしさと不安をどう超えてゆくのか、それが釈尊の出発点であった。それは仏教の出発点でもある。そして、その出発点は、今までの自分を省みることから始まる。

【真宗の終活 2-(3)へ続く】

 

雲井 一久(くもい・かずひさ)

横浜組真照寺衆徒

真宗本廟教導

産業カウンセラー

著書『終活と宗活』同朋選書

 
 
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