2024年11月13日
Category インタビュー
「Dr.Bala」の「Bala(バラー)」はミャンマー語で「力持ち」という意味。学生時代にラグビーと相撲で鍛えた。20キロの水サーバーのタンクを両肩に担いで階段を上っている姿を見て、ミャンマーの看護師が名付けたニックネームである。
医学部を卒業して、研修医2年目のとき、アジアを中心に国際医療支援を行っているNGO団体「ジャパンハート」の創立者の吉岡秀人先生の講演を聞いたんです。「現地にどっぷりと浸(つ)かる医者は10年に1人か20年に1人出ると思うが、それでは日本の国際協力は発展しない。1年に1週間でもいいから関わってほしい。日本に居ながらにして国際協力をやり続けるシステムが必要なんだ」。
確かに1年で1週間であれば自分にもできるし、それは一生涯続けてやる価値があるかもしれないと思ったのです。将来への不安やキャリアの道筋は端に置いて、「ミャンマーに行きたい。国際協力をしたい」という自分の心の声に素直に従う決断をしたのです。後期臨床研修1年を終えて、27歳になったぼくは、研修を一時中断し、国際協力のためにミャンマーへと出発しました。そしてこれが現在まで約17年間続く、医療ボランティア、国際協力がスタートした瞬間でした。
東南アジアの医療を変えたい、短い期間でボランティアを続けられる仕組みを作りたいという大村さんの願いは10年後には実現した。不足する医療器具や人材、停電、自然災害など、大村医師は現地の人たちと共に動き、熱意と努力で乗り越えていった。
人間だれしも亡くなる前に、何分か何秒か分からないけど、パッと元気になるときがあるんですね。この時間を家族と共有できたりすると、その人のいのちが家族の中で生き始めるのです。
50代ぐらいの若い方だったのですが、モルヒネや鎮静剤を入れて、脈も伸びてきて、いよいよ最期というときに、ご家族の人たちが最期は一緒にいたいからいつでも呼んでくれと言われていたものですから、朝の4時くらいに呼んだんです。すると、目が覚めて「腹へったな」とおっしゃったんです。それで家族がびっくりして、すぐご飯を買ってきて、一緒に食べようということになった。東京タワーが見えるきれいな景色の中で、ご飯を一緒に食べられたんです。一口とか二口とか。そのまま1時間後にお亡くなりになった。最期の言葉が「腹へったな」です。そのエピソードを共有できたことで、悲しいは悲しいけど、そのエピソードが生きていくんですね。
現代は、疑似の空間が多すぎる。インターネットもそうです。死を本当に自分のこととして感じられない。「あなたは癌(がん)で、これを治療しなかったら死ぬんだよ」「いや、でも仕事が。来月じゃないと」。自分のいのちを他人事(ひとごと)みたいな感じで向き合えない。いのちというのは有限です。そこを通るために、やっぱり必死でなければいけないと、ぼくは医者として感じています。
大村和弘
耳鼻科医師
1979年生まれ。東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科学教室講師。獨協医科大学埼玉医療センター耳鼻咽喉科非常勤講師。NPO Knot Asia代表。内視鏡を使用した鼻副鼻腔腫瘍の手術を専門とする。医療と教育でアジアをつなぐことを目指し、17年にわたり、内視鏡を使った鼻や頭蓋底手術技術を見いだし、世界中で共有している。著書に『破天荒ドクター―常識を超え、突き抜ける! Dr.Balaの56の流儀―』。
写真・児玉成一