真宗の終活 2-(3) 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2024年11月15日

Category 終活

真宗の終活 2-(3)

 

 

●迷いと選択

 

「人生は選択の連続である」。これは、シェイクスピアの言葉である。普段の生活の中で、沢山の選択をしている。そしてその選択によって、結果が生じる。その結果によって、「今の自分」が作られてゆくのである。

Yさんは、熱心な真宗門徒の家で育ったが、その反発でクリスチャンになっていた。

そのYさん、60代にはいって、骨髄性白血病になった。骨髄移植をすれば7年、しなければ3年。しかも移植手術の成功勝率は30パーセント。選択に悩み、事実が受け取れず、悩みに悩んだ。何度も何度も教会に通い、教えを請うた。「神様はあなたに背負えない試練は与えません。あなたが背負えるからこそ、神様はその運命をお与えになっているのです」と教えられた。

 「そんな勝手に運命と言われても、困ります。言っていることは分かります。自分のことになると受け取れますかね。他人事だから背負いなさいと言えるのでないですか。」お寺にお墓参りに来られた際、すごい剣幕で話された。そして「仏教ではどういうのですか」と訊ねられた。

 それから、お話をする機会が増えた。お話を重ねてゆくうちに、Yさんは「運命と言われると、押し付けられているようで嫌だけど、自分で決めたとなったら、納得がゆく」と仰られた。そういって確率の低い手術で、七年生きるよりも、三年しっかり生きてゆくことを決断された。 そして、改めて出発したいと、帰敬式を受けたいといわれた。

 選択の中には、いやおうなしに選択せざるおえないものもある。それは他律的だ。決断は、それを生きてゆくという自律的な態度である。

●因果の道理

 『無量寿経』という経典に「愛と欲の世界に、人は独りで生まれ独りで死に、独りで去りて独りで来る。それぞれの行いによって苦や楽があるが、それは自分自身が受けるもので代わりに受ける者はいない」と云う言葉がある。

 ブッタは、因果の道理を説かれた。気の遠くなるような無量無数の原因によって、結果が生じる。しかもその結果は、自分の思い通りになるとは限らない。だから、おきた結果が、都合がよければラッキーというが、都合が悪ければ、不条理と言って喜べない。問題が大きければ、何故私ばかりがと言って悲嘆にくれるしかない。それを、この経典では、苦楽という。そして、その苦楽の結果は、誰も代わってもらえないと説かれている。

 これがいのちの厳粛な道理である。この道理に暗いことを無明という。身に起きた結果に、自分のもの差しで善し悪しをつけるから、苦楽を感じるのである。苦がなければ楽もない。楽がなければ、苦もない。そしてその善悪のもの差しは、比べ心でできている。比べ心によって、他と比べ、自分を自分で比べて、都合の良いものは、求めて、都合が悪いことは避けようとする。しかし本当は、自分自身からは、逃げられないのだ。

 この経典の言葉は、自律的に生きることを、勧められているのではいか。Yさんの決断から、そう教えられた。その決断をされてから数か月、Yさんは丁寧に生きられた。本当に自分の人生を生き切ろうとしていた。いのちの終わりを見すえられ、自分に起きた結果を背負うとしていた。痛みや苦しみがあれば、思いきり泣いた。なんで自分ばかりが,こんな目に合うのかと嘆くこともあった。それでも、この人生は自分がいただいた人生だといっていた。仏教にであって、本当にキリスト教で言う運命ということが分かったといっていた。

 引き受けられないことは引き受けられないし、引き受けられることは引き受けられる。それが、自分なのだ。それがはっきりしたと言われていた。だから、法名が欲しい、帰敬式を受けるのが、自分の目標だと言って、入院生活をされていた。

コロナの最中であったので、メールで、法名を一緒に考えていた。クリスチャンネームを漢字に宛ててはどうだろう。そういう返信がきた。その二日後にYさんは、息を引き取った。

 Yさんは出発点を見つけたのだと思う。大地に足がついたのだ。善いも悪いも、自分の内容であり、自分の人生であった。善悪のものさしを超えて、自由自在に終活をされたのだと思う。Yさんのご法名を見る度に、「君は地に足がついているのか」という声が聞こえてくる。

 出発点に立てず、出発点さえみつけられない自分が見えてくる。自分のものさしで自分をはかれば、都合の悪い自分は、受けとることはできない。そのものさしから解放されない限り、いつまでたっても、自分との追いかけっこを続け、出発点すら見つけられない。そして、そのまま人生を終えてゆくしかない。地に足がつかない。

 

 

●無量寿

 無量寿とは、はかることが出来ないいのちの仏様ということである。はかることが出来ないとは、比べることが出来ないということである。比べることなきいのちの仏様。帰命無量寿如来とは、比べることなきいのちに、帰れという仏様からの呼びかけである。宗ということでいえば、無量寿を拠り所としなさいと言うことになる。その宗を見出すのが、何度も言うが宗活という問題である。

 無量寿仏の国土を浄土という。浄土とは、大地に譬えられる。そして、地に足がついてない生活を迷いというのである。

●田舎と都会の中間で

 自坊のある地域は、高齢者が多く住む昔ながらの農村地区と子育て世代が多く住むニュータウンのはざまに位置している。そこから見えてくることがある。ニュータウンは最新設備の整った、便利で快適な作りとなっている。マンションと駅は直通していて雨にぬれずに自室前まで戻れる。しかも、マンションに入ったら、人にあわずに自宅玄関まで至ることが出来る。

 都市部までの電車通勤、職場での人間関係のストレスで、自宅くらい、ゆったりと人に関わらずにいたいという働き盛りの人をターゲットにしたマンションが、多くを占めているのが、ニュータウンだ。

それに、対して村の生活は、人と人の関わりが濃密だ。隣近所、仕事の上で、他者と関わらなければ、生きてゆけない。お互いの顔を見知っていて、何かあれば助け合う。しかし、関係が密であれば、煩わしさもあるし、トラブルもある。そして、都市では考えられない秩序もある。

 人間関係に疲れ、プライベートくらいは、関りを持たずに生活したい世代と、人間関係にもまれながらも、お互いをよく知って生活をしているお年寄りたちを見ていると、自分は後者の方が、安心だと思う。若いころは、密な関係が本当に煩わしかった。しかし、五十を過ぎると見えてくることがある。

 都市生活は便利で快適で、他者の力を借りずに生きてゆける。若いうちはそう思っていた。しかし、年齢を重ねたら、煩わしい人間関係が、大事になってきた。煩わしいからこそ、深い人間関係ができるのではないか。そこに安心があるのではないだろうかか。終活を考えていると、そういうことに気がつかされた。

 それは、終活という言葉が流行る根っこには、孤独という問題が見え隠れするからである。終活を意識するのはこの「孤独」ということを、人間はどこかで常に意識をしているのではないかと思う。先の『無量寿経』の教えでは、根本的に人間は、独りだと説いている。

●念仏の世界

 曽我量深先生は念仏の世界を「お念仏は一人でいても淋しくない。一人でいれば静かで良い。大勢いれば賑やかでよい。ところが人間の了見が間違っているというと我執が募っている。大勢寄ると うるさくてたまらん。一人でいると淋しくてたまらん」と言っておられる。(『真宗の眼目』法蔵館)

 曽我先生は、宗(真実の拠り所)をお念仏の世界と教えてくださっている。孤独の問題は他人ごとではない。それが終活の根っこに横たわっている。いま、ここ、私の後生の一大事が終活という言葉によって、問われている。あなたは、地に足がついているのかと。【完】

雲井 一久(くもい・かずひさ)

横浜組真照寺衆徒

真宗本廟教導

産業カウンセラー

著書『終活と宗活』同朋選書

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