コラム|死んだらどうなる 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年02月10日

Category サンガコラム終活

死んだらどうなる

老いるについて―野の花診療所の窓から  Vol.64

 

 「死んだらどうなるんですか」と問われることがある。「死体になる」とまでは言える。一歩進んで「骨になる」とも言えるが、骨は生きてる時も存在していたので、改めて骨になるわけでもない。「極楽に行く」「天国に行く」や「地獄に行く」などは見たことがないので何とも言えない。

 人が死んでいくのは多く見てきた。お産の対極にある死に辿りつくことを支える緩和医療に携わってきたので。ゆっくりと死への過程をくぐって、死を迎えられた時、「着陸されたようです」とか「旅立ちされたようです」と言うことはある。「死」という言葉がどうしても否定的なトーンを今も持ち合わせているので(永久にかも知れない)、その言葉を避けることがしばしばある。「息を引き取られました」と言うこともある。「引き取る」には「引き継ぐ」の意味がある。死者が宙に吐いた呼気を、見つめていた家族が吸い、引き継いで呼吸していくという気持ちを伝える。死が終わりを告げるものではなく、リレーされたいのちとして在り続けていくものでありたい、という願いを込めてそう言う。

 「死は無になるということですか?」とさらに問われる。無は難しい。無は時に、「大切なものが有ったのに、無くなってしまった」と表現し、有は良きもの、無は悪しきもの、と価値判断することがある。存在と非存在。確かに、生きていれば会い、話し、触れることが可能なのに、死すれば、そのどれもが無い。死は無になるということは、日常的にはその通りだろう。ここが難しい。

 いのちはどこから来たか。その答えを知らないが、遠い宇宙から流れ星によって地球の海に運ばれた、という説は分かりやすく、その信奉者になりたい。さらに、石牟礼道子さんが言うように「元祖細胞」から野生の一つのいのちをもらったので、死んだら祖さまのところへ帰る、という推測に真実を見る気もする。さらに自分の感覚を述べると、死後いのちは結局、「消える」、「融ける」、のではないか。再び湧き、灯り、結晶化する、という現象を秘めながら、いのちは「無」とは言い切れないところに消えていく。

 

徳永 進 (医師)
1948年鳥取県生まれ。京都大学医学部卒業。鳥取赤十字病院内科部長を経て、01年、鳥取市内にホスピスケアを行う「野の花診療所」を開設。82年『死の中の笑み』で講談社ノンフィクション賞、92年、地域医療への貢献を認められ第1回若月賞を受賞。著書に、『老いるもよし』『死の文化を豊かに』『「いのち」の現場でとまどう』『看取るあなたへ』(共著)など多数。

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