どのような介護を受けたいか|終活コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年01月12日

Category 終活

どのような介護を受けたいか

各専門分野の先生がそのテーマのポイントをわかりやすく解説する「終活コラム」です。
今回のテーマは「介護」です。超高齢化社会の現代では目を背けることはできない「介護」という問題を、仏教的視点を併せながら尋ねていきます。

介護に関する終活のこと

 終活に関する書籍やエンディングノートには、「終末期医療」の項目などと同様に「介護」に関する項目があります。

たとえば

「どこで介護を受けたいか(場所)」

「どのような介護を受けたいか(体制)」

などの項目があるでしょう。皆さまはどのような介護に関する希望をお持ちでしょうか。

 実は、私たちにとって、終末期医療のことと同様に「どこで、どのような介護を受けるのか」ということは、自分のことではあるものの、予測や計画がとても難しいものと言えます。

 自宅や介護施設では治療が難しい病気になってしまったり(身体の状況)、多少の貯金や不動産はあるものの年金額に不安があったり(経済的な状況)、予期せず配偶者が病気になってしまうことや、子どもが遠方への転勤になったり(家族の状況)など、様々な個別の事情によって、受けられる介護や、過ごせる場所、入居できる施設の選択肢が絞られることもあります。

 もし、仮にそれらの条件がうまく整ったとしても、特に施設入居などに関しては、必要なタイミングで希望した施設にすぐに入居できるとも限りません。

 そのときの条件や状況によって、もっとも思い通りにいかないのが、実は「介護」に関することだと言えるでしょう。

介護に関する希望でよく耳にするのが

「必要な介護を受けながらずっと自宅で生活したい」

 または、

「家族に迷惑をかけたくないので施設に入居したい」

など、特に介護を受ける場所に関する希望です。終末期医療に関しても同様ですが、家族などにとってはご本人の思いが明確になっている方が、いろいろな選択や決断をしていくうえで、その希望に添って決めていけばよいので悩みが少なく助けられる場合ももちろんあります。

 しかし、もう一方では、本人が受けたい介護の希望(「自宅で介護をうけたい」「○○施設に入りたい」など)を明確にしすぎてしまったことによって、家族にとってそれが困難な状況となったとき、悩みの種になってしまうこともあります。

 「自宅で介護を受けたい」という本人の希望をとにかく実現してあげたいと家族が無理をして自宅で介護を続ける選択をしてしまい、その結果、家族が心身ともに限界を超えてしまう、というケースを聞くことも少なくありません。

 そのような状況を見るに見かねて担当のケアマネージャーなど、周囲の人から施設に入ることを勧められ、その後、無事に施設に入所することになったとしても、家族は「本人の希望に反して施設に入れてしまった」という後悔の念に悩むこともよくあります。また、そのことをご本人の死亡後までも長く引きずってしまう御家族も多いのです。

 本来は「家族に迷惑をかけまい」と始めた「終活」による明確な意思表示が、状況・条件によっては、逆に家族を悩ませてしまうということもありうるのです。

思い通りでない介護を受け入れられますか

 それならば「介護に関する希望は書き記さない方がいいのか?」というと、そういう訳ではありません。

 もし介護についての希望を書き記すならば、

「できれば、こういう接し方はされたくない」

「できれば認知症になっても、こういうことを大事にしてほしい」

というような内容であれば、仮に介護を受けることになった場合に家族や介護関係者などがその本人の希望を参考にできますし、ケアプランなどにも反映してもらえたりもすると思います。

 そして、家族などは本人の代わりに希望を施設や病院に対して答える場面もありますので、やはり終末期医療の希望にしても、受けたい介護の希望についても、エンディングノートなどにしたがって、その意思は記しておいた方が良いでしょう。

 しかし、最後に一言、

「条件や状況によっては、希望通りにならなくてもよいです」

というような家族への配慮の追記を、私はおすすめしたいと思います。この言葉が家族にとっては救われるような大切な一言になりうる状況もあると思うからです。

 しかし、そうは言っても私たちは実際に「状況によってはどのような場所で介護を受けて生活してもよい」「どのような介護の環境でも引き受けていきます。希望通りにならなくてもよいです」と本当に心からそう思ってエンディングノートに記したり、家族に意思表示したりできるものでしょうか。そこが大きな課題であり、自分自身へ問いつづけなければならないことだと思います。

「最期のあり様」と「老いのあり様」

 親鸞聖人は「善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をばもうさず」と、最期のあり様の善し悪しは問題にしないと言います。その最期のあり方の善し悪しによって、その人の人生の尊さや、その人の人生が幸せであったかどうかなど決定づけられるものではありません。どのような最期のあり様であっても、一人ひとりが唯一のかけがえのない存在であることに変わりはないということでしょう。

 どうしても私たちは「最期のあり様」によって「あんなにつらい最期で、その人の人生は良かったのであろうか、幸せな人生であったのだろうか」と慮ります。しかし、どのような最期であろうと、たとえ若くして亡くなろうと、長寿で亡くなろうと、その人の人生の尊さや、命の輝き、この世に生を受けた事実は、私たちには計り知れない大切なものです。

 これは同じように「老いのあり様」の善し悪しについても言えると思います。私たちは老い方の善し悪しを心配し、「こういう症状の認知症にだけはなりたくない」「完全な寝たきりにだけはなりたくない」などと怖れ、どうにかしたいと思います。

 しかし、認知症になりたくてなった方はいるでしょうか。寝たきりになりたくてなった方はいるでしょうか。その病気になりたくてなった方はいるでしょうか。

 老い方の善し悪しについても、私たちの思い通りになるとは限りません。そういう身を私たちは生きているということを思い知らされます。どのような老い方であろうと、それは私たちの思いや計らいを超えた、私たちの身の事実です。

 介護や終末期に関する終活を考える上では、「どのようにしたいか」を明確にしていくことも大切ですが、「どうにもならない我が身」であるということへの気付きが大切なのでしょう。

 「どうしたい」という希望をハッキリさせる終活も大事な面がありますが、どのような「老いのあり様(要介護の状態)」、どのような「最期のあり様(終末期)」であっても、そのままに引き受けていけるような終活が、私たちに本当の安心をもたらすものでしょう。

 どのような人生であっても、かけがえのない大切な私の人生であると歩んでいける心境、そういう心の拠り所を、現在ただ今に見出していくことこそが、私たちにとって本当に必要な終活(終わりに向けた活動)といえるのではないでしょうか。

 

 

中島 航(なかじま・こう)

九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師。

1975年生まれ、東京都出身。大谷大学大学院修士課程(真宗学)修了。社会福祉士、介護支援専門員、権利擁護センターぱあとなあ福岡会員、真宗大谷派教師。特別養護老人ホーム、養護老人ホームの主任相談員を経て現職へ。また現在は福祉相談事務所風航舎(ふうこうしゃ)を設立して成年後見人等の活動も行っている。専門分野は、家族支援を中心としたソーシャルワーク、看取り支援、グリーフケア(遺族支援)、高齢者の権利擁護、仏教的視点から考える高齢者福祉など。

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