2024年01月01日
Category サンガコラム終活
診療所の外来は朝9時から始まる。前の道も狭く、外来の患者さんは多くはない。なのに、朝8時前から待合室の椅子に座っている人がある。水曜日の朝、98才のMさんが椅子にちょこんと座って本を読んでいる。急いでる様子はない。表情は穏やか。顔も手も日焼けしている。その全体が静かな空気で包まれている。何の本だろう。昔は中学の社会の教師で副校長だった。糖尿病と高血圧がある。薬が切れる前に予約通りに受診される。9時、診察が始まる。「お早うございます」とお互いにあいさつを交わす。「いかがですか」と問う。「変わりありません。腹は減りませんが、一汁一菜で食べてます」と答えられる。体重計に乗ってもらう。相撲取りさんが乗るようなアナログ体重計。こちらからもよく見える。体重50㎏。いつも50㎏、変わらない。「眠れますか?」と聞く。「夜10時に寝て、夜中に一度起きて、朝5時には起きます」。睡眠薬は要りますかと尋ねると、「自然に眠気が来ますから」とほほ笑まれる。
23年8月15日の台風7号、鳥取の東部は大雨で川が氾濫し橋も崩壊したりした。「田んぼは大丈夫でしたか」と尋ねてみた。「米の方は数年前から人に頼んで私の手から離れてます。今回の台風、大丈夫でした」。数年前まで、8反の稲作を一人でやっていた。「昨日は耕運機を使いました」とおっしゃった。98才で耕運機! 驚いた。日焼けの理由も健康の理由も分かる気がした。「大根地を作りました。タマネギ、サツマイモ、白菜、ニンジンも作ります。そんな広くないです。年ですから。14m×4mの畑です。これから肥料をやります」。
毎日の生活に張りがあるようだ。「農薬も要るでしょう?」と聞くと「芽が出てからです。根切り虫が大敵、これとの闘いです」。うかうかしておれないという暮らしも、それが故に楽しそうに聞こえた。「農業がなかったら、これほど長生きはしてないと思います。毎日、朝晩の水やりが仕事です。水をかけるのは祈り、みたいなもんです。農業は全てが祈りです」。朝一番のぼくへのレッスン。「あと一年半生かせてもらったら十分です」と笑われた。
徳永 進 (医師)
1948年鳥取県生まれ。京都大学医学部卒業。鳥取赤十字病院内科部長を経て、01年、鳥取市内にホスピスケアを行う「野の花診療所」を開設。82年『死の中の笑み』で講談社ノンフィクション賞、92年、地域医療への貢献を認められ第1回若月賞を受賞。著書に、『老いるもよし』『死の文化を豊かに』『「いのち」の現場でとまどう』『看取るあなたへ』(共著)など多数。