2024年01月01日
Category サンガコラム
格別トラ・ファンでもないので気にも止めなかったが、昨年の阪神は随分「アレ」で盛り上がった。「いよいよアレ」「アレ間近」……。アレとはむろん優勝のこと。ただし剥き出しに名指しはせず、ぼんやりとアレと呼ぶところがミソである。おかげで選手たちは無益な緊張からは逃れ、リラックスした一体感の中で、18年ぶりのアレ(セリーグ優勝)に立ち向かうことができたというのだ。
新聞報道によると岡田監督はオリックス監督だった2010年当時、すでに優勝をアレと呼んでいたというから、野球の技術論を超えるこの「言葉の力」戦略は、彼の長い経験に裏打ちされたものだろう。そう、あからさまにいうのではなく、ぼんやりと隠すことによって却って新たな力を引き出してくるというメカニズム。
阪神の躍進が本当にそのせいだったかどうかは別にしても、アレ語法は選手やファンを超えて多くの日本人の心にも響いたようで、「冬になると食べたいアレ」「懐かしい理科実験室のアレ」などと、今ではすっかり流行語である。同調圧力が強く、空気を読むことが求められる日本社会では、言葉の定義を厳密につきつめる態度より、アレで済むならその方がはるかに好ましいのだろう。
もう一点。アレのかもすぼんやり感は、物事との間に置かれた距離に由来するものでもある。なにしろコレに対するアレ、ココに対するアコ(あそこ)、コチラに対するアチラのアなのだ。やや突き放したところがある。このことと、コロナ禍のこの4年間、われわれ日本人に強いられた「3密回避」など離隔をよしとする体験とは、果たして無関係だろうか。
稲垣 真澄(フリージャーナリスト)