2022年06月29日
Category サンガコラム終活
各専門分野の先生がそのテーマのポイントをわかりやすく解説する「終活コラム」です。
今回はお寺の住職が「お寺」と場所からを「終活」を考えていきます。
「終活」とは、一般的には「人生の終わりに向けた活動」と受け止められていると思われます。
2009年に、ある週刊誌に連載された記事がきっかけとなり、「終活」という言葉が認識されるようになりました。そして、2010年に「新語・流行語大賞」にノミネートされ、2012年にはトップテンに選出されました。その後、さまざまなかたちで「終活」が取り上げられ、近年では再び流行がやってきたようにも思います。
高齢化社会を迎えて久しく、行政を含め多くの企業も関心を向けていることと思います。ですから、あちらこちらで「終活セミナー」なるものが催されています。
でも、その形態や取り上げるテーマなどはそれぞれです。
保険会社が主催する「終活セミナー」では、セカンドライフに向けたマネープランを提案する内容になるでしょう。行政が主催する「終活セミナー」では、成年後見制度や介護保険などの行政サービスの紹介など。士業の主催であれば、相続や死後事務委任など。葬儀社が主催すれば、葬儀のプランや仏事相談・・・。
つまり、主催者が呼び込みたい「ゴール」に向けたセミナー内容になっていきます。ですから関心のある方は、それらのさまざまな「終活セミナー」から、自分の関心のあるテーマや目標を選んでいくことになるのでしょう。
私がお預かりしているお寺では、3ヶ月に一度「終活セミナー」を開催しています。毎回テーマを替えて、ご参加いただく皆さまと学び合っています。
私は、「終活」という言葉で取り上げられるトピックスは、かつては、お寺で語り合っていたことではなかったかなと思うのです。日常生活の中で、困ったことや不安なこと、生きるための知恵などを、お寺で情報交換をしていたのではないかと思うのです。
もちろん、住職一人で全てを解決することは難しいでしょう。でも、「あの人に相談したらいいよ」「同じようなことをあそこの人も言っていたよ」「詳しい人がいるから聞いてみようか」などと、つなぐことはできたと思うのです。
つまり、お寺が地域コミュニティの場所という機能を持っていたのです。地域の方々が日常生活を送るうえで、大切な場所であったはずなのです。かつては・・・。
それが、高度経済成長をくぐる中で、お寺が仏事偏重になってしまい、地域社会の日常からかけ離れていってしまったのではないかと、私は感じています。
いかがでしょう・・・、法事やお墓参り、お葬式以外にお寺に行く用事がありますか? 日常生活に関わる場所だという認識がありますか?
今、地域社会にとっても、お寺にとっても、この「地域コミュニティ」としてのお寺という場所を回復していくべきではないかと思っているのです。
そのようなことから、私はお寺で「終活」を呼びかけ、「終活」という言葉で「地域コミュニティ」としてのお寺の機能を取り戻せないものかと願っているのです。
さまざまなテーマで「終活」を考え、備えることはできますが、「HOW TO」では間に合わないことがあります。それは、誰もが抱える大きな不安、この「いのち」は必ず終わりを迎える、ということです。
「死」を考えることは怖いことですし、悲しいことですし、苦しいことでしょう。でも、誰もが例外なく迎える、この身の事実です。いずれ、必ず向き合わなければならない大問題なのです。
「死」だけではありません。この身の事実は、老・病・死を抱えた「いのち」の事実です。
仏陀となられたお釈迦さま、ゴータマ・シッダールタという方は、王様の子どもとして産まれました。何不自由なく暮らしていた皇太子が出家をすることとなるきっかけとして語られる、「四門出遊の物語」が伝えられています。
ある時ゴータマは、家臣を連れて東の門から城外へ出ていかれました。すると門の外に一人の人がうずくまっていました。ゴータマは家臣に「あの人はどういう人か」と尋ねます。家臣は「あの者は老人です」と答えます。ゴータマは、気力も体力も衰えた老人の姿に動揺し、城内へ帰ってしまいました。
また別の日に、南の門より家臣を連れて城外へ出かけようとしました。するとまた、そこに人がうずくまっていました。同じように「あの人はどういう人か」と尋ねると、「あの者は病人です」という答えが返ってきます。病に倒れ、苦しんでいる病人の姿に、ゴータマはまた心を乱され、城内に帰ってしまいました。
さらに別の日、西の門から城外へ出ると、死者を弔う葬送の列に出会います。悲しみに打ちひしがれる人々の中に横たわる死者を見て、ゴータマはまた大きく心が揺さぶられ、城内へ帰ってしまいました。
お城の中で生活していたゴータマは、初めて、老・病・死を知ったのです。人は誰もが、老い、病み、死を迎える、老・病・死を抱えたいのちを生きているということに深く悩むことになります。
そんなある日、今度は北の門から城外へ出てみると、そこに静かに佇む沙門に出会います。同じように家臣に「あの人はどういう人か」と尋ねると、家臣は「あの者は、苦悩に向き合い、その苦悩を超える道を求めて生きる人で、沙門と呼ばれます」と答えます。
道を求めて生きる沙門の姿に感動したゴータマは、自分も同じように道を求めて生きてゆきたいと願います。人として生まれたこのいのちは、老いて、病み、そして死にゆくことから逃れることはできない。ならば、この「老・病・死」という苦しみを抱えたいのちを生きてゆく道を求めたいと願ったのでしょう。
「終活」ということを考えるとき、その根本に、誰もが老・病・死の問題を抱えていると思うのです。目の前の不安や心配事を整理し、先々の準備をしたとしても、老い、病み、死すべきこのいのちへの不安は消えることはありません。
老・病・死を抱えたいのちをどう生きて往くのか。そのゴータマが抱えた苦悩と同じ問いを、仏の教えに尋ねてゆく。
それがお寺での学び、「仏教の終活」ということなのです。
小林尚樹(こばやし・なおき)
真宗大谷派光明寺住職(東京都江東区)。首都圏教化推進本部本部員
都立小松川高校卒業。拓殖大学卒業後に大谷専修学院を経て真宗大谷派教師資格を取得。その後は㈱イナバインターナショナルに9年間勤務。退職後、大谷大学大学院修士課程に進学。卒業後は真宗大谷派東京教区駐在教導などを歴任し、現在に至る。地域に根差した「お寺」を目指し、仏事以外の活動も積極的に行う。