2022年06月11日
Category インタビュー
美しい絵を見たときの感動のように、言語化できない人間の感覚的な世界を、言葉を使って分析する学問。それを「美学」という。
伊藤さんは、その中で特に障害のある人たちの身体感覚について研究されてきた。
視覚や聴覚など、さまざまな障害を抱えた人たちが、どうやって世界を認識し、どのように自分の身体と対話しているのか。多くの当事者インタビューを通して見えてきたこと。
私自身、吃音を持っているのですが、「言葉を発する」という行為一つとっても、私たちの体は意識していないところで、すごく複雑なプロセスを自然に行なっているんですね。障害を抱えた人たちにお話を聞いていくと、一人ひとりがまったく違う、そういう言わば「究極のローカルルール」を生きておられるということが分かってきました。例えば視覚障害を持った方と待ち合わせをするときに、駅からの道のりをメールで教えてくれたりするんですが、その書き方が、ちょっとした段差とか、そこだけタイルの材質が違うんだとか、見えている私と全く違うものを目印にされているんです。その方と一緒にいると、同じ町でも、まったく違う場所のように見えてくるようで、すごく面白いんですね。
障害があると、もちろん苦労も多いと思うんですけど、そもそも自分の体に100%満足している人っていないと思うんです。たまたま与えられたこの身体を引き受けて生きていくしかない。だから障害について考えることは、思い通りにならない自分と向き合っていくことでもあると思うんですね。
障害の有無に関わらず、今は自分を認めることがとても難しい時代ですよね。若い方でも「いいね」の数とか、フォロワー数とかで評価されてしまって、自分を商品のように考えてしまう人も多いんじゃないでしょうか。でもその自分は、世界に一人しかいない。本当は数字に変換できないものだと思うんです。
デジタル社会を生きる現代人のコミュニケーションは、文字や数値など視覚情報によるところが多い。伊藤さんは「どう見られているか」という、視覚からの情報を基盤にした「まなざしの人間関係」に対し、触覚を中心とした「手の人間関係」の重要性を強調されている。
障害のある人たちと関わっていると、肩を貸したり手を引いたり、身体的な接触が増えるんですね。その時のコミュニケーションって、普段のものと何かが違うんです。いつもは視覚優位で、相手の情報を一方的にキャッチしようとしている。距離をとって、無意識に相手を評価するような態度を取っているんです。でも触覚的なコミュニケーションって、それとは全く違うルールで動いていることに気がついたんです。そこに注目して書いたのが『手の倫理』という本でした。
日本語には「さわる」と「ふれる」という二つの動詞がありますよね。「傷口にさわる」というと、一方的で遠慮がない感じですが、「傷口にふれる」というと、そっと相手の気持ちや状態を探りつつ、いたわりながら接触をしている感じがします。「ふれる」というコミュニケーションは双方向的で、「この人はいまどう感じているかな?」と、お互いに探りながら微調整をし合える、余白みたいなものがあると思うんです。
「ふれる」という感覚が、ときに論理を超えた深い納得や、自分の認識の変化のきっかけを与えてくれる、大きな可能性を持っているのではないかと思います。
<Profile>
伊藤 亜紗(イトウ・アサ)
1979年生まれ。専門は美学、現代アート。東京工業大学科学技術創成研究院未来の人類研究センター長。同リベラルアーツ研究教育院教授。生物学者を目指していたが、大学3年次より文転。主な著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)、『手の倫理』(講談社選書メチエ)など。
『手の倫理』定価:1,760円(税込)224ページ(講談社選書メチエ)
写真・児玉成一