親鸞フォーラム第3回 | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
お問い合わせ アクセス

親鸞フォーラム

親鸞フォーラム第3回

親鸞フォーラム第3回

2010年2月14日(日)
テーマ:人間・存在の大地を求めて―現代の仏教の対話

パネリスト
宮崎 哲弥 氏(評論家)
香山 リカ氏(精神科医・立教大学教授)
門脇 健氏(大谷大学教授)

コーディネーター
武田 定光氏(真宗大谷派因速寺住職)

人間・存在の大地を求めて―現代と仏教の対話ー

武田 真宗大谷派は宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌を、単に法要として勤めるだけではなく、御遠忌を縁として人間存在を深く考える場を首都圏において公開してきました。その一環としてこれまでに二回、「親鸞フォーラム」を開催してきました。
現代はさまざまな問題を抱えています。「リーマン・ショック」にはじまる不況、また、十二年連続で三万人の自死者を出している時代です。さらに、うつ病を患われている方は六五〇万人とも言われています。このような苦悩の時代の中で、私たちはどう生きていったらいいのでしょうか。また、人間存在を支える大地はあるのでしょうか。今回は、マスメディアが報じるような表面の問題だけではなく、深層にある問題を皆さんと一緒に考えたいと思います。
翻ってみますと、親鸞の生きた中世・鎌倉期も、現代と同質の苦悩を抱えていた時代でした。戦乱や飢饉、疫病がある時代でした。「老病死」という問題は、言ってみれば、一万年前も、これから一万年後も変わらない人類普遍の問題です。そこにはなぜ生きるのかという問いが横たわっているのです。
本日は現代の知恵を代表する先生方をお迎えしまして、皆さんと一緒に問題の根を考えていきたいと思います。そして、願わくは、ここにお集まりいただいた一人ひとりの方に、明日も生きていくことができる勇気を感じ取っていただければ幸いと思います。人間のすべてを論理的に説明できると計画を立て、前進や向上、成長といった光が当たる面ばかりに目を向けてしまうがために、かえって人間が苦しんでしまうということがある。

香山 私は精神科医で、今年で二十四年ぐらい、人生の半分近くこの仕事をしています。私が精神科医になった一九八〇年代の中頃は日本がバブル景気を迎えようという時代でした。私が研修医になった頃に、先輩から「これから精神科医になる人は気の毒だね。これからの精神科医は失業するよ。世の中がこんなに豊かになって、便利になって、人間のストレスもこれからずいぶん減っていくだろう」と言われました。もちろん、精神科の疾患の中には、ストレスがなくても起こる病気もありますが、多くはいろいろなストレスが原因で起こります。
それから二十数年たって、非常に精神科医が忙しい社会になってしまっていることは、皆さんもご承知のことと思います。
私は昨年、『しがみつかない生き方─「ふつうの幸せ」を手に入れる10のルール』(幻冬舎新書)という本を出しました。その中で、「頑張ろう」、「努力すれば何でもできる」というメッセージに対するアンチテーゼとして、「生きている意味を問わない」、「仕事に夢を求めない」など、今の時代に水を差し、皆さんが拍子抜けするメッセージをいくつか書きました。この本をなぜ書いたかという話は、いろいろな場でしてきましたし、本の中にも書いてありますので、本に書いていない話をしたいと思います。
精神科医には、医学の中でもいくつか専門領域があります。現代は、「ブレインサイエンス」と言われるような脳科学の時代です。精神疾患の多くが、脳の機能的な異常、神経伝達物質のいろいろな不調によって起きるということがわかってきたり、あるいは、画像診断で見えるような、脳の一部の器質的な異常が原因で起きる心の問題がたくさんあることがわかってきました。そういった科学的な方面から研究をしたり、遺伝子や「ゲノム」などの面から研究をする人たちもいます。
私は精神医学の中でも、「精神病理学」と言われる、うつや幻聴などの症状の背景に、その人の過去や存在の問題がどのように関係しているのかを考え、逆にそこから、うつにならない人間とは何かと考える、どちらかと言えば、哲学や文学に拠った精神分析を専門にしています。

ところが、私が精神科医になった頃から、そういった分野は非常に旗色が悪くなりました。その原因の一つには、先ほどの脳科学の台頭があります。それはもちろん、治療のためには非常に有効なものも多いので、私も実際の診療の場面では薬も出しますし、MRI(磁気共鳴画像)の検査もします。そういった「ブレインサイエンス」の知識や知恵はいろいろな治療の場面で使っています。しかし、なぜそのような精神病理学や精神分析の旗色が悪いかと言いますと、今、精神医療の現場で使っている診断基準自体が、その人がどのような原因で病気になったかという、人の心の深層や、無意識という部分で何が起きているのかということを、まったく前提としないようなものになっているからなのです。

その診断基準とは、アメリカの精神医学会がつくったDSM(「精神障害の診断と統計の手引き」Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)と呼ばれるものなのです。私はこれを批判しようとしているのではありません。いろいろなメリットもあり、今や世界標準で使われています。つまり、精神医療の世界でもグローバリゼーションが起きていて、世界中でその人の症状がどうなのかということを簡単に診断できる基準を使っているのです。現在は、精神病理とか、精神分析という考え方「エロス(生へ向かう衝動)」「タナトス(死へ向かう衝動)」を、徐々に使えないものにしていったという側面があるのです。

 

しかし、とても大きなことは、アメリカにとって精神分析的な考え方自体が、大きな危険をはらんでいたのではないか、それを採り入れることに対して、直観的に危険を感じた精神医学者たちがいるのではないかということが最近検証されて、非常によく言われるようになってきました。
皆さんは「精神分析」というと、西洋的な、合理的な人間理解のように思うかもしれません。精神分析を始めたフロイトという人は、晩年、亡くなる頃には、「死の欲動」、生命体は最終的には無に帰するという考え方に取りつかれていました。これは先ほどの、「エロス・タナトス」と言われている中の、「タナトス」の考え方です。フロイトはこの考えに取りつかれていることを、自分でも否定しようとしましたが、否定しようとすればするほど、自分の今まで提言してきたありとあらゆる仮説が、非常にうまく説明できたのです。

フロイトの『快原理の彼岸』という本の中に、「欲動の全生活は死を招き寄せることに奉仕しているという前提、この光のもとで見られると、自己保存、権力、名声へと向かう諸欲動の理論的意義は色あせてしまう。結局のところ、有機体はただ自分のやり方でのみ死のうとするのである」とあります。つまり、この死の欲動を出発点とするような、精神分析の思想を採り入れることは、フロイトの言う成長や名誉、あるいは前進といったものをすべて否定してしまうようなエネルギーを引き受けるということにもなるわけです。科学としてこのような危険な考えを受け入れていくのは、医学においても社会においても、いつか危険なことが起きるのではないかという、ある種の直感も働いて、アメリカの精神医学の中から、精神分析に何とか退席してもらわないといけないという動きが起きているのです。その結果として、現在の、ある意味で非常にわかりやすい、明解で論理的で矛盾のない診断基準ができてきたのではないかと言われています。

しかし、このことは誰もが常識的にわかることですが、人間はすべてを明解に論理的に考えたり、うつや自殺の問題のすべてを合理的に説明し尽くすことは絶対にできないわけです。いわゆる「魔が差した」という言葉で説明されるような、ふとした思い付きや、まったくそれまで明るく元気だった人が、何か説明できない暗い思いにとらわれて、考えられないような犯罪を起こしてしまうなど、日常的に非合理的なことはたくさんあるわけです。
あるいは、一所懸命頑張っていた人に、突然何かのアクシデントが起きて、すべて無駄になってしまうということが起こります。最近の精神医学の流れでは、そのようなことはとりあえずなかったこととして、それすらも理屈で説明しようとしてしまう。けれども、逆にそうすればするほど、今度は本当に皮肉なことに、そういった説明し尽くせないような、うつや自殺など「死の欲動」が関係しているとしか言いようのない事象が増えていく状況になっています。
特にアメリカは、「九・一一」の同時多発テロ以降、精神分析的にうまく説明できない、あるいは、形あるものはなくなってしまうという、ある種の無常観をヒステリックなまでに打ち消して、「すべて正義や理屈で説明できる」という価値観で前へ前へと進もうとしている。それを日本もそのまま追従してしまっている。その結果として、今、日本が陥っているような、いろいろな問題が起きてしまっているのではないかと思うのです。
私は、精神分析を見直そうと言うつもりではありません。けれども、人間のすべてを論理的に説明できると計画を立て、前進や向上、成長といった光が当たる面ばかりに目を向けてしまうがために、かえって人間が苦しんでしまうということがあると思うのです。
そこで、自分の中からわいてくる暗い面に足を取られてしまい、悩んでいる人たちに、そもそもそんなものではないと伝えようと思って書いたのが、『しがみつかない生き方』です。
そういうことで、私が今まで精神科医として歩んできた二十数年の歩みと、世界が、ある種の無常観を出発点とするような精神分析を排除しようとしてきた歩みが一致したものですから、そのことをお話しいたしました。

変わることはつらいことであって、そのつらさ、耐え難さというものをどうのり超えていくか。どうやって受け入れていくか。 それを苦とは感じないように、いかに自己や世界についての認識を変換していくかということがブッディズムの一大テーマである。

宮崎 のっけから個人的な話で申し訳ないのですが、特に東京の方はテレビで私の姿をあまり見かけなくなってきたのではないかと思います。香山さんと一緒にコメンテーターをしていた番組も、去年の春頃に降板しました。それ以外にもレギュラー番組を減らしました。
私は今年で四十八歳になります。世間的には時事評論家ですから、世情の移り変わりを常にフォローしていなければいけない。政治や経済のみならず、社会的な事件や芸能、スポーツなどの話題を万遍なくフォローして、毎日コメントしなければならない。まさしく時間の神「クロノス」の虜になったような暮らしをしていることにだんだん疲れてきました。香山さんのご専門の心身相関領域、体と心が関わり合う領域の問題なのかもしれませんが、体に支障が出始めまして、自主的に仕事を返上しました。どちらかと言うと、時間に追われず、もう少しのんびりとした仕事で、自分のペースを少しずつ取り戻していきたいという望みを持つようになりました。
会場におられる方には、私よりも年上の方もたくさんいらっしゃると思います。「こわっぱが何を」というご意見をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。しかし、とにかく私の心持ちとしては、四十五歳を起点にして、生き方を変えたいと思うようになったのです。四十五歳ぐらいになってくると、大切な友人、知人、親類、同い年の人たちが死んでいくのですね。去年も大切な友人を突然亡くしてつらい思いをしました。そのことを考えると、自分もいつ死んでもおかしくないのです。いつ病院で「死に至る病」だと伝えられてもおかしくない年齢に入ったということも、自分の生活全体を見直さなければならないと思う大きなきっかけになりました。
今日は、「現代と仏教」が大きなテーマになっています。私は自分をずっと仏教者だと自認し、公言してきたのですが、この齢に至って仏教というものが、自分の人生の重みをかけて向き合わなければならない、大事であるといよいよ自覚し始めた次第です。

私がもともと仏教に関心を持った契機は、子どもの時に「自分が死ぬ」という事態がまったく腑に落ちなかったからです。死は恐怖すべき対象というよりも、対象性を完全に欠いた不可解であった。にも拘わらず、生まれ落ちてたった二十五億秒ほど数えると避けがたい運命として「それ」は訪れる。「それ」とは何なのか。「その」向こう側には何があるのか。それとも何にもないのか。そのように死を問うことは取りも直さず、二十五億秒のどこかの瞬間にある、ただ今の生の意味を問うということでもあります。私は答えを見出すべく、古今東西の哲学や宗教をしました。しかし、端的な答えは得られなかった。で、最終的に到達したのが仏教であり、「大乗八宗の祖」として崇められ、親鸞聖人選定の七高僧の第一祖に挙げられている龍樹(ナーガールジュナ)の思想です。その龍樹の主著『中論』を大学時代に読んだ時に、ある種の、雷に打たれたような体験をして、それ以来、私にとってその中観仏教が一つの人生の、考え方のになっていったのです。

私は、子どもの時から禅寺にしばらく預けられていたりして、仏教とは親しみがありました。体感的に得ている部分もあるのですが、自分の死がいよいよ可能性として大いにあり得ることを実感した時に、やっと仏教が何を言おうとしているのかということを、自分の人生の問題とし、これが単なる知識や修行ではなくて、全人生の重みをかけて取り組むべき課題なのだとはっきりとしてきた。これはこの二、三年の大きな変化でした。

その変化にしたがって、少しずつ仕事を辞めて、なぜ死が恐ろしいのか、なぜいろいろなものに執着していくのかを考えるようになったのです。この問題は、先ほど香山さんがおっしゃったように、生への執着、そして、死の欲動をどのように私たちが認めていくかということとも関わり合いがあると思うのです。

私たちは実体的なもの、確実なもの、変減せざるもの、永遠なるものを求める。他の宗教などではよく、永劫の存在というものが一つの心の依り処となるわけですが、永遠なるものは存在しないのに、それをあるものと想定して、そこに依拠し、かつそこに執着する。このことを、今日は香山さんもいらっしゃるので、サブカルチャーから題材を取って、家族論と絡めて話したいと思います。

昨年、村上たかしという方の『星守る犬』(双葉社)という漫画が団塊の世代から私の同世代までの男性を中心によく読まれてベストセラーになりました。どういう内容かと言いますと、主人公は中年男性で、その男性は家庭を持っていたのですが、大病を患い、リストラに遭い、家族が離散してしまうのです。家では娘が連れてきた犬を飼っていて、皮肉なことに「ハッピー」という名前なのですけども、その犬と一緒に家を追い出されてしまった。そして主人公は、その犬を連れて、あてどもない旅に出るのです。病気を抱えながら、まさしく人生の終の旅で、その途中にいろいろなエピソードが織り込まれていますが、結局、最後にこの男性は旅の途中で亡くなってしまいます。漫画には犬の心象風景も描かれていて、男性を「おとうさん」と言っています。男性が死ぬ時に、その犬もずっと男性の周りを離れずに、その数カ月後に、男性の傍らで死んでいく。その姿が発見されるというところからストーリーが始まります。

これを読むと、非常に身につまされる思いがするし、泣けるように描かれています。犬が死ぬ時、「忠犬ハチ公」のハチのように、お父さんが迎えに来て、「一緒に行こうか」と言って旅立つというところで第一のストーリーが終わっています。これはとてもよく描けているし、非常に感動的だとは思ったのですが、この作品は私の観点からすると仏教的ではないと思うのです。なぜかと言えば、愛の姿が、「ハッピー」と「おとうさん」の絆が、永遠不変のものとして描かれているからです。

この村上たかしさんの漫画に対して、その一年ほど前に、村上かつらさんという女性の漫画家が、『ラッキー─Are you LUCKY』(ビッグコミックス)という作品をお描きになっています。これも人間と犬のストーリーです。犬は「ラッキー」という名前ですけれども、目がバー状になっていて、五文字しか表示されないロボット犬なのです。この犬を、内気でいじめられている少年が押し入れの中から発見するところから物語が始まります。ラッキーは、少年が生まれる前に、父親と母親が子ども代わりに愛玩していたロボットだったのです。しかも、この犬は飼い主にだんだん似ていくという特質がある。主人公の母親は、病気で亡くなっているのですが、その母親が男の子を生む前の記憶を宿した犬を、男の子が押し入れから発見し、その後の犬とのいろいろな生活のエピソードが綴られているのです。
私にとって、ある意味で感動的なのは、少年が成長していく中で何を学んでいくかということです。あるいは、家族関係も永遠のものではない。自己すら永遠のものではなく、変わっていくものだということをこの本は主張したいのではないかと思うのです。その変わっていく家族の在り方を痛みとして感じつつも、それを受け入れていかなければならない。それが人間だということが非常によく描かれています。
永遠不変の「おとうさん」とハッピーとの愛のきずなを確かめることによって終わる『星守る犬』と、同じように世間から疎外されている主人公と犬の関係を描いている『ラッキー─Are you LUCKY』という作品は見事な対照をなしています。私はどちらかというと、仏教の考え方に近いのは『ラッキー』だと思うのです。『ラッキー』は最後に、「永遠じゃない。家族の形は変わっていくことを僕は知っている。それを悲しいと、耐え難いと思っていたあのころ、ラッキーと出会った」という独白で終わっています。この独白は、家族ですら、あるいは成長の過程にある自分自身ですら、永遠不変のものではない、変わらざるを得ないものだということを意味していると思います。
そして、変わることはつらいことであって、そのつらさ、耐え難さというものをどうのり超えていくか、どう受け入れていくか。それを苦とは感じないように、いかに自己や世界についての認識を変換していくかということがブディズムの一大テーマであると思います。

未来から自分を見る視点をもち、 自分自身の「無限の価値」に気づくべきである。

門脇 香山さんも宮崎さんも死の問題と関係して、家族ということを問題にされているとお聴きしました。またフロイトの精神分析がアメリカで非常に警戒され、それは「死の欲動」が非常に危険視されているからだというご指摘は興味深いものでした。

私は、去年、『フロイト全集第12巻─トーテムとタブー』という作品を、岩波書店の全集で訳させていただきました。その本は、人を埋葬する、うという時に、いろいろなタブーが考え出されているという内容で、やはり、そこでも死の問題と家族の問題が非常に密接に関係付けられて論じられています。それをアメリカが敬遠し始めているというのは、非常に象徴的だと思います。家族から切り離した個人で考えたい。自立した個人でいたいという考え方が、アメリカ、あるいはグローバリゼーションの大きな流れなのですね。

現在、香山さんの病院へ訪ねて来られる若い方々も、個人として自立して、そこで努力して成功しなければならないという意識が非常に強いのでしょう。今、問題となっている「派遣切り」などに遭った人たちを見ますと、「仕事がなくて本当に恥ずかしい」と、自分を責めているのですね。昔でしたら「居候」や「部屋住み」など、他人や親類に世話になるということがありました。今はそういうことはしません。自立していないと恥ずかしいというような考え方になっています。今の若い人たちは、努力しなければならないという「呪い」を自分にかけるような形で頑張ります。常に「自分は駄目だ」という「呪い」をガソリンにして前に進もうとしますから、どんどん自分を傷つけていくという形になっていると思います。

そのような中で、仏教はどのように対応できるのかが今問われていると思うのです。よく「かけがえのないいのち」という言い方をします。「かけがえのないいのち」と言われても、社会では、代わりぐらいいくらでもいるというような状況で、仏教は何を言えるのか。

仏教では「無量寿」と言います。あるいは哲学の用語では、「無限のいのち」という言い方をします。その無限のいのちとどこで出会えるかという問題です。自分のいのち、自分の価値が無限とは思えない。そのような情況の中で、どうやって無限の価値を持った自分に出会えるかという問題があると思います。それは、一つは死という問題です。

 

先ほどの宮崎さんの話で、家族ですら永遠ではないというお話がありましたが、永遠ではないから価値があるのです。
私はよく学生に「君たちは二十二歳でずっといられたら就職も恋愛も焦らないだろう」と言います。何度も何度もチャレンジし直すことができるから。すると、一回一回のチャレンジは価値のないものになってしまいます。「価値」ということを我々はどのように考えているかと言いますと、例えば、「思い出」ということです。それは何とも取り換えることができない。そういう無限の価値を持ったものが我々の中にあるわけです。井上陽水の「少年時代」、あるいは北原白秋の「この道」などの歌で、我々は、自分の過去の記憶が無限の価値を持っているように感じて生きています。けれども、今の自分をそのような「思い出」としては考えられない。しかし、家族ですら永遠ではない。いつか誰かが、そして自分も死んでいく。そのような未来から今の自分を眺めるという視点を持つとどうなるのか。
与謝野晶子に「いづくへかる日近きここちしてこの世のもののなつかしきころ」という歌があります。一九四二(昭和十七)年に出版された『白櫻集』(『定本与謝野晶子全集』第七巻・講談社)の歌で、晶子が亡くなる年に書かれています。晶子は、「お浄土」や「彼岸」などの言葉を安易に言えなかった方ですが、「いづくへか歸る」ということを思うと、この世が懐かしい場所になる。今現在「この世」にあること自体がそんな懐かしい無限の価値を持ったものとして映っている。そういう価値は、生老病死というところを通って、そこからもう一度戻ってくるという、時間の逆流の中で見えてくるのです。
ですから、この自分が永遠ではないというところから、逆に、自分がどれだけの価値を持っているかが非常に鮮明になってくる。どんなにつまらなくても、そこには無限の価値があると。そういう、いいところも悪いところも引き受けようとする「努力」と、嫌なところはもう捨て去って成功しようという形の「努力」ではずいぶん質が違ってくる。そういうところで、やはり家族ということも大きな問題だと思います。この家族を切り捨てたところで現在が成り立っているようなところもあると思います。

武田 三人の方のお話を聞いていますと、アメリカで「九・一一」以降、精神分析が排除される形になってきていて、文明は死を排除することを発展と考えてきたのではないかと私は思うのです。ある会社の飛行機に乗ると、十三番という座席がないとか、違う会社の飛行機では「死」を連想させる四十四番という座席がないのです。現代の知恵を集めた飛行機ですら、死を見えないようにしてしまっている。そのような問題が赤裸々になってきたのではないかと思います。
我々はどこかで死ぬことを知っていますが、それが切実な問題となってくるのは、やはり歳を重ねてからです。そういう意味で、「歳」ということは大事ですね。永遠だと思おうが、永遠ではないと思おうが、年齢を重ねるとやはり、やがてみんな死んでいくということが切実な問題として迫ってきます。その時に、死をどんな形で受容していくかが問題になってくると思うのです。

宮崎 十七世紀フランスのモラリスト、ラ・ロシュフコーのに「人は太陽と死を直視できない」というものがあります。「死」を直に凝視し続けることは、人間にはなかなか難しいことです。ですから、なるべくそれを見ないで、目をそらして、あるいは覆いをかけて無害化してきた。昔からそうしてきたのです。
原始経典の『スッタニパータ』を、中村元先生が『ブッダのことば─スッタニパータ 』(岩波文庫)として訳され、非常に多くの方に読まれています。この経典には「ああ短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ」などと生のはかなさを嘆き、死を避けがたいものとするブッダの言葉がいくつも出てきます。私が興味深く思うのは、教祖が死を直視し、ニヒリスティックなまでの絶望を吐露している点です。これは他の宗教にはまずみられない特徴ではないでしょうか。
仏教の中にも「輪廻思想」が見られますが、他の一神教の、常住論的な来世観とはかなり違っています。世界中で多くの宗教や神話では、死後に天国のような場所に赴き、人々はそこで永遠に安楽に暮らすということが、さまざまな形で描かれてきた。こうした想像的な装置を使って、人々は「死」を覆い隠し、「死」に関する思考にブレーキをかけてきたのでしょう。それはそれで、社会を営み、生存を維持し、生産力を向上させるうえで必要な人類の知恵だったのかもしれない。そういう意味ではフロイトの「タナトス」すなわち死の欲動が、隠蔽されがちであった理由もよくわかります。
ただ、それではもはや現代では通用しなくなってきている。それは個が露呈してきているということと関わりがあると思うのです。自分が持続して共同体が永続していくという考え方も、死の恐怖を和らげて、死を直視しないための一つの知恵というか、工夫だったのかもしれない。現代では、その部分がなかなか通用しなくなって、個が投げ出されて、個の実存とはいったい何なのかが、多くの人たちに問題視されるようになってきたと言えるのではないか。あえて仏教者として、やや偏った見解を述べると、まさにこのような時こそが仏教の出番だと思います。

香山 宮崎さんがお話しされたことを別の角度からお話したいと思います。
今、NHKで『龍馬伝』が放送されています。龍馬が「自分探し」と言いますか、「なぜ生きるのか」、「これでいいのか」と、非常に葛藤しています。今の若い世代に番組を見てもらうためには、龍馬も一人の個人で、自分の人生の意味を問うたり、先ほど門脇さんがおっしゃったような、「これでいいのか」という自己否定的な、何かそういう発想を持たせた個人として描かないと共感されにくいために、その内容になっているのかと思います。
先ほど精神分析の話をしたのですが、実際の現場では、悠長に分析を行っている時間はほとんどありません。ここ二、三年、精神科医の仕事の内容が変わってきています。それは、精神科の診察室が社会的サービスの案内所のようになっているのです。例えば、患者さんは、「眠れない」「気持ちが落ち込む」と言って診察に来られますが、「何かきっかけはありましたか」と聞くと、患者さんには明確な原因があるのです。多重債務、DV(ドメスティック・バイオレンス)で暴力を配偶者から受けている、リストラされて職がないというような状態です。「ゆっくりうつを治しましょう」と言っている場合ではない。「女性センターに行って、シェルターに入ってください」、「生活保護の手続きをしましょう」、「弁護士を紹介します」など、医師もばたばたと電話をしたり、いろいろな窓口を案内したりという、ケースワーカー的な状態です。
なぜこんなことになっているのだろうと考えてみると、先ほど門脇さんが言われたように、昔はどこかに頼るところがあったのです。遠い親戚や中学の恩師。昔少し連絡しただけの友達。あまり連絡しにくいけど、「仕方がないから」と頼って、向こうも迷惑だと思いながらも、「一週間だけならいていいよ」とか、「二万円だけ貸すよ」と、正式ではないような人間関係の中で、何らかの解決の場所があったのだと思います。しかし、今はそういう場所がないわけですから、仕方がないから私たち医師も役所やNPOなどの窓口を紹介するようになってしまっている。そのように、まさしく個が露呈して、むき出しのまま社会の中でいる。そうなると今度は、逆に、「自分は何者だ」とか、「個人として誰なのか」ということが非常に問われてしまうわけです。
一度勤めた会社も永遠に雇用してくれるわけでもない。例えば、「○○大学出身」と言っても、その出身大学が倒産し、無くなっていたりすることもあって、「どこどこの誰々です」と言うような所属先や出身校で自分を語れなくなっています。「私は何をしてきた」とか、「私はこういう人間です」と言えない社会になっています。

宮崎 先日、NHKで「無縁社会」、「孤立死」を扱った番組が放送され、大変話題になりました。
私は十年ほど前に、このままでは日本社会は、流砂のような個人ばかりの社会になってしまうだろうと述べました。これは多くの社会学者が同様に述べた指摘です。例えば、「独居老人」と言われる、老人が一人で暮らす世帯が、これから都市部を中心にどんどん増えていきます。現在でも、東京や大阪でかなり増えています。そうすると、そのような人たちの多くは、あえて言えば、「無縁死」、「孤立死」と言われる非常に厳しい死を迎えてしまう可能性が出てくる。このことにどう対応していくかというのが、一つは行政の問題でもあります。
西洋でしたら、キリスト教社会は、教会を中心にして、比較的そういう人を救済する組織が確立されている部分もあります。日本では、例えば寺院はそういうものの担い手になり得るのかということも、私は問われるべきだと思います。

香山 そうですね。寺院が地域を把握しているということもあるでしょう。
最近、「おひとりさま」ということがよく言われています。不謹慎だけれども、「ハッピー孤独死マニュアル」という、一人で生きて、一人で死んでいく時に、どう準備をしていけば後腐れがないかというようなサービスや遺品整理業などが、いろいろあります。私は、今、死ぬ時はみんな一人で死ぬのだから、そんなに一人で死を迎えることに対して恐怖を持たなくてもいいのではないかと、女性の人たちで勉強会をしています。

門脇 私は「おひとりさま」という言葉は、非常に警戒しなければならないと思っています。例えばレストランに行った時に、「おひとりさまですか」と聞かれるわけです。聞かれた方にとっては、一人で入っていっているのに、「おひとりさまですか」とあえて聞かれるのは不快ですよね、「見ればわかるだろ」って。要するに、お金を払ってくれるお客さまだから「おひとりさま」なのです。そういう社会に私たちは生きています。経済的関係だけで、それ以外のべたべたした余計な人間関係をしないでおこうという姿勢が今の社会です。
先ほど、香山さんが「おひとりさま」として、病後、死後について勉強会をされているとおっしゃいましたが、これはある意味でお釈迦さまの「四門出遊」の話と同じなのです。
お釈迦さまは、生まれてすぐにお母さまを亡くされて、愁いに沈みがちな性格だったために、お父さまが立派な宮殿を造り、その中で何の不自由もない生活をされていた。
ある日、お釈迦さまはお供を連れて宮殿の外に出てみた。東の門から出ると、腰が曲がってみにくい姿になってしまった老人がいた。またある日、南の門から出ると、道端で青白い顔をして苦しそうにもがいている病人がいた。またある日、西の門から出ると、今度は悲しみに泣き叫んでいる葬式の人たちの列に出会い、死人を見た。「私もいずれああなるのか」とびっくりして、老、病、死を知ったといいます。結局、今の現代、自立して生きてきた団塊の世代以下の我々は、今、やっと「老後」があることを知った。東の門から出たようなものなのです。ですから、私たちは、これから南の門、西の門から出なければなりません。
私は今五十五歳です。先ほど、宮崎さんが四十五歳になった時の話をされましたが、五十五歳になったらさらに深刻な問題になります。ここには、私よりだいぶご年配の方もおられます。年を取ってどういうことが起こってくるのかということは、年を取ってみなければわかりません。ところが、仏教では、その予行演習をするのです。「生老病死」は四苦である。その苦をいかにして受容していくかという発想です。
そこで、「おひとりさま」の話に戻ります。病後、死後の問題です。「おひとりさま」という、家族から離れた形でサービスを買う。これは天皇制国家が家族主義で、天皇を親として、国民を赤子とするという時代の反省から、戦後一挙に家族というものを捨てるという形で社会が動いてきたことの結果だと思います。戦後六十年、家族を非常にネガティブなものとして扱ってきたことが、今、相当ボディーブローのように効いているのではないかと思うのです。

宮崎 先ほど、ゴータマ・シッダールタ、釈迦牟尼という私たち仏教者からすれば本師であるお方の「四門出遊」の挿話を引かれました。そこで思い起こすのは、お釈迦さまは人生の真実、世界の真相を見極めるために、自らの家族を捨ててただ一人になられた、という伝承です。この孤独に生のあるがままと向き合う姿勢は、全仏教者の規範となっているはずです。仏伝によれば自らの実子に「ラーフラ」と名づけたとされる。よく読まれているらしい手塚治虫の『ブッダ』では「ラーフラ」にという訳を当ててあります。子は悟りのための障りに他ならないというわけです。また「悪魔」を意味するという説もあります。
いずれにせよ、実子にそのようなネガティブな名を命じるというのは、この語り伝えが史実かどうかは別として、仏教の家族や血族集団についての基本姿勢を反映しているように思えます。他の世界宗教にも、現に所属している家族や共同体に対して距離を置き、「個」をどのように救済するかということを主眼にする傾向が看て取れます。

門脇 基本的に、キリスト教にせよ、真宗にせよ、やはり最終的には個人の救いであるという形で言われています。しかし、その個人がどこに属するかということが問題なのです。一つの共同体をどのように考えるか。お釈迦さまの場合は、「出家」と言いますが、王子ですから、家を出る、家族を捨てるということではない。部族社会を捨てるということなのです。社会の外へ出て、そしてもう一度戻ってくるということです。まず「出世間」ということです。ですから、真宗においても、親鸞聖人ならば比叡山に登っておられるというようなことがあります。そして、そこから出てもう一つの共同体へと戻ってくる。そして、その共同体が大きくなる。これを、キリスト教も、仏教も同じように「ブラザーズ」や「同朋」など、要するに、「きょうだい」という言い方をします。単に血のつながりのきょうだいではなくて、もっと大きな家族という形を考える。そして、キリスト教では、神とは「父」という言い方をします。親鸞聖人は、お釈迦さま・阿弥陀さまを「お慈悲を持った父母である」という言い方をします。そこは平等社会ではないのです。親と子は平等ではありません。親子の関係は、助けられる、恩を受ける、その恩を謝するという関係が出てきます。
ところが、市民社会はそうではありません。市民社会とは、自立した個人が常に対等に向き合う場所です。ですから、そういう家族的な上下の関係、つまり生の時間差を今は認めなくなっていることを、もう一度何らかの形で考えなければいけないのです。
「長幼の序」という考え方があります。年老いている人、幼い人には序列があるという古い考え方です。しかし、それは当たり前の話なのです。幼い子どもを親が世話する。年老いて歩くのが不自由になった老人を子どもが世話する。ところが、我々は「長幼の序」的な考えを否定するように染まってしまっているために、なかなかうまくいかないのです。

私はただ生まれただけで生きている、誰の役にも立っていなくても、 人から迷惑だと思われていても、生まれたからには生きていく権利、価値がある。

香山 「長幼の序」を持たなければいけないというのは、それは自分を世話してくれた親や社会のためにいろいろしてくれた人だからです。例えば、ずっと悪いことばかりをしてきて、おじいさんになった人に対してはどうでしょうか。なぜそのように思うかと言うと、キリスト教では、家族から切り離されて、個として神の前に立って、神を父として一対一で神と契約を結ぶわけです。そして、神からは愛されている、何か道を与えられているというようになるわけです。
マザー・テレサという人がいました。彼女は、インドで誰からもケアもされず、生きていることすら誰からも気にもかけてもらえないで死んでいく人、死んでも誰も悲しんでくれないような人を、自分の施設に連れて行き、最後にケアをした。「神様はずっとあなたのことを見ておられましたよ、愛しておられたのですよ」と知らせて、死を迎えさせる活動をしていたわけです。キリスト教では、何の役にも立たない、誰からも感謝されないというような存在でも、神は愛しているとか、神だけは見ていたと説いて、それが救いになっていくわけです。そういった観点では仏教はどのように考えるのでしょうか。
現代には、誰かから承認をしてもらおうと、何かいいことをして、それが生きる喜びになるという考え方があります。例えば、若い人がブログをしたり、最近ではツイッターというものも盛んです。ブログではアクセス数が、ツイッターではフォローと言って、何人の人が自分のツイッターを見てくれているかが、常に数値化されています。その中で人から、「ありがとう」と言われると、「生きていてよかった」とか「私も生きている価値があると思えるから、どんどん人にもいいことをする」と言う若い人たちもいます。
私の病院に、稀に先天性の障害を持っている人が診察に来られます。けれども、親も面倒が見られず、すぐ施設に入れられます。ほとんど自分で意思を全うしたりもできず、ただ寝たきりで世話をされている人です。そのような人たちが、少しにこっと笑ったりすると、ケアする側の人たちが「ケアしてよかった、喜びを与えられている」と言う人もいるけれども、私にはとてもそうは思えません。
では、そのような人たちは生きている価値はないのかと言えば、私はただ生まれただけで生きている、誰の役にも立っていなくても、人から迷惑だと思われていても、生まれたからには生きていく権利、価値があるのだと思わないと、このような人たちのことを説明できないと思うのです。そのあたりは仏教的にはどう説明がつくのでしょうか。

存在そのものが何らかの縁を作り出している。したがって救われる。 その理法、原理をほぼ無条件で信じるのが仏道の信心である。

宮崎 それは難しいですね。先ほど、私は仏教は個の宗教であり、他の共同体や国家を超えて普遍性を獲得した世界宗教、例えばキリスト教なども、概ねそうだと申し上げました。けれども、ここではちょっと疑問を持ってほしいのです。というのは、仏教の原則は基本的に常住なるものが実在するという信念をける。自己の根底に永遠なる実体があるという観念そのものの解体を目指すのが仏教であって、これこそが無我論と呼ばれるものです。仏教は個の独存を認めません。ということは、個の独存を認めない仏教が、同時に個を救済する宗教であるというのは、一見、端的な矛盾にみえます。仏教を勉強したての頃、私が直面した問題の一つで、非常に悩みました。
例えば、先に触れた『スッタニパータ』などの原始経典には「自己をとせよ」と書かれています。しかし、自己の独立存在性を否定する仏教が、自己を「洲」、すなわち「依り処とせよ」とは、いったいどういうことなのか。漢訳の『大般涅槃経』には「自灯明」という言葉もみえる。この言葉の意味は、「自らの足下は、自らの光によって照らせ」です。まったき個人主義、自己責任論ですね。
この皮相の矛盾を解く鍵が「縁起」という視点なのです。実は「自灯明」の前に「法灯明」という言葉が置かれている。「法を依り処とせよ」という意味です。この「法」とは縁起の理法なんですね。縁起の法によって成る「自己」、つまり事象の相関性のネットワークの結節点に仮設、仮構される「自己」というが先行しているのです。関係が解けてしまえば「自己」もなくなる。自力で自性として存在するものなどないという仏教の存在性質論、縁起論を知れば、先ほどの「孤立死」や「無縁死」も実はあり得ないことがわかる。香山さんがおっしゃったように、長く大病を患っておられて、コミュニケーションが消失してしまったようにみえる人であっても、その存在そのものが何らかの縁を作り出している。したがって救われる。その理法、原理をほぼ無条件で信じるのが仏道の信心であろうと私は思っています。

香山 「縁」というのは、例えばどのようなことですか。

宮崎 その不動の、沈黙の身体を誰かが見ること、感じることによって新たな「縁」が作り出される。その人がベッドに横たわっているという状況そのものが何かの「縁」によって成り立っている。そういう関係の総体です。

香山 例えば、無人島に飛行機が墜落して、死んだと思われていた人が、一人で生き残った。その人は死んだと思われているけれども、実は生きているという場合はどうですか。

宮崎 その場合は確かに人間社会の中では、もはや「過去の記憶」にしか存在していないかもしれない。しかし、その人はなお無人島の環境世界に影響を及ぼし、環境から不断に影響を受けています。彼が生き続ける限り、あるいは死んだ後でさえも「縁」は作り出されていくわけです。

門脇 私が小さい頃、小さな村で、認知症のおじちゃんが村の中を歩いていました。子どもたちはその後ろにくっついて、「わあっ」とはやしたてる。そういう形で生活が成り立っていた。ところが、そういう方々を排除してしまったのが現代だと思います。やはり、市民社会の中ではそのような存在とは、効率の悪い、邪魔な存在とされる。昔はそのような人が「神の子」だというような見方もありました。このような人たちをどのように見つめていくかが、これからの課題なのだと思います。機能だけで人間を見ていくのか、認知症のような人はどんどん切り捨てられていくという方向に向くのか。もう少し緩い形で、「いろいろな人がいるから面白いね」となっていかないか。今、その境目に来ている感じがします。

武田 『歎異抄』の中に、「親鸞は父母ののためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず。そのゆえは、一切の有情は、みなもつて世々生々の父母兄弟なり」という親鸞聖人の言葉があります。娑婆そのもの、一切の有情が父母・きょうだいというのはファンタジーですね。そこが龍樹の中観の考え方かどうかわかりませんが、否定だけではやはり虚無になってしまうのではないかと思います。

宮崎 中観は世界の実在性を虚妄もしくは虚構と断じますが、虚無とはいいません。その親鸞聖人の言葉はおそらく先に述べた縁起の法、つまり一切の存在の関係性を肉親の関係にえたものでしょう。そして、真宗に往相と還相、行き道と帰り道があるように、実は中観にも往相、還相があると思うのです。以下は雑なたとえ話ですが、単に「ない」という否定が行き道だとすれば、それをさらに否定して、「ないのでもない」という否定の否定へと転じ、帰り道に至る。世間(世界)を一旦否定した後、さらにその否定を否定し、世間に戻った時、そこの世俗は世俗を超えたものとして、仏道を修める者の前に姿を現す。世間の見え方が変わってしまう。そういう往還の道行きが真宗にも共通する仏道のあり様かなあとも思うのですが。
それから、先ほど香山さんが非常に興味深い提起をなされました。「お年寄りならば、悪行を重ねてきた人であっても敬わなければならないのか」と問われた。真宗では、『歎異抄』にあるように、「悪人正機」、つまり悪人こそが往生できると説いています。善人よりも悪人が往生できる。善人が往生できるのに、悪人が救われないことがあろうかと。『歎異抄』は聞き書きですけれども、親鸞聖人がそうおっしゃっている。この視点から、この問題をどのように考えるのかをうかがいたいのですが。

 

武田 その「悪」をどのように見るかという問題があります。法律的な悪や道義的な悪などがありますが、親鸞としては、やはり永遠との関係です。そのことを我々は擬人化して「如来」とか「仏」と言っていますが、その永遠というものから、自己が「汝、悪人よ」と呼ばれる体験を「悪人」と言っているのです。第三者の誰かを「悪人」と言っているわけではありません。
かつて、オウム真理教の事件で、「麻原彰晃は浄土にいけるのか、いけないのか」という問いに、「いけるに違いない」と答えた方がいました。けれども、あれは言い過ぎで、本当にいけるかどうかは、如来が決めることで、我々が決めることではない。生も死も決定的に相対的なものであって、人間に死はわからないし、体験できない。それも横に置いてしまうところが、親鸞が「愚か」と言う原点になってくるのです。
ですから、「悪人」と言った場合は、第三者の誰かを指しての悪人ではありません。その人が本当は悪であるのか、善であるのかを我々には判断できないわけです。そういうものが「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と、そこにつながってくるわけです。人間は、父母であるか、きょうだいであるかがわからない。生きるものが父母であり、きょうだいであると言えば、豚肉を食べたら、それはきょうだいを食べることになりますよね。そんなことは人間にはあり得ない視点であって、それは「超越」というものです。私たちは「超越」というところを、仏や如来という形で実体化するのですが、仏教そのものは論理的必然性として、我々が阿弥陀さまを置いているだけで、阿弥陀さまがいるわけではないのです。否定媒体として必要だから人間のためにいるということです。

門脇 犯罪をおかした悪人が救われるかどうかという問いはあまり意味がないですね。そこでは、破壊された法の回復が問題だからです。しかし宗教的には犯罪者と言えども、何らかの形で自分の罪を懺悔できるというところに至れるかということが問題なのです。それを抜きにして、救われるか救われないかということを考えても、あまり意味がありません。自分が自力で何をしようとしたのかに気がつけるかどうかということです。
ところで、親鸞聖人は、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」という法然上人のお言葉を大事にされた。親鸞聖人ご自身は、「正信偈」の中で、念仏を保つことは「難中之難 これに過ぎたるはなし」とおっしゃっています。念仏を住持するとは、行としては簡単ですが、「南無阿弥陀仏」を称えるだけで救われると言われても、「そんなはずはない」と思ってしまい、なかなか頭が下がらない。そこですっと頭が下がったら、どんな罪を犯しても、最後には救われるだろうという話になってくるはずです。ところが、そこまでなかなかいかないという問題がある。
すると、親鸞聖人は、念仏を保てない「邪見慢悪衆生」という言葉で、自分自身をおっしゃっているということになります。やはり自分で何とかしようと思ってしまう側面があることを教えてくれるのは、法然上人の「ただ素直に手を合わせて、「南無阿弥陀仏」と称えなさい」という言葉だった。つまり、我々はなかなか、そういう形で手を合わすということができない悪人であることを知らされ続けていくということがあるのかと思います。

香山 「悪人」とまでは言わないにしろ、自分に対してよくしてくれなかった人でも、年寄りになったというだけで敬うべきなのでしょうか。

門脇 やはり、一人の人間が生きているという事実、そして、年齢を重ねてこられた事実は重いです。歳は追い越せません。こればかりは自力では何ともし難い。これはご遺体を前にするとよく実感できることです。
ところが、「みんなが疲れている社会」は、「関係(性)」のない社会なのです。若くても、年を取っていても、社会にとって都合のいい能力に報酬が与えられるという世界がいいという形になりつつある。
基本的に、個の世界では、年輪を重ねていくという「時の豊かさ」までも無視する流れが非常に大きい。やはり、年を取るということ自体も他力だと思います。そういうことに対する尊敬が欠けてきていることが、「長幼の序」がなくなっていることにもなるのだろうと思います。

宮崎 仏教において「悪」とは何かというのは、これもまたなかなか悩ましい問題です。実は、私たちが日常生活において感じる悪と、純粋に倫理的な悪とはまた異なっています。またユダヤ教やイスラム教など各宗教が規定する悪とも違う。そこで仏教はいかなる行いを悪とみなすのかという問題ですが、やはり悟りという理想状態から主体を遠ざけてしまう行為態様を悪とする、という以外にないのではないかと思います。例えば、在家向けの「五戒」─、、、、をはじめ、出家者には無数の戒が設けられています。戒を破ることは当然悪なのですが、ではそれはいかなる悪なのかと問えば、カント的な無条件の道徳律によって判定される悪とは違います。というゴールを前提とした、合目的的な発想から設定された戒であり、悪であると捉えるべきでしょう。むしろ、そういう善と悪を固着的なもの、絶対的なものと見てしまった場合に生じる執着の弊害こそが仏教が厳しく退けるべき対象です。
もう少し角度を変えて話すと、私たちの社会では「愛」はほぼ無条件でよきことだと思われています。ところが仏教はこの「愛」を否定するのです。それは憎しみ同様、執着に過ぎない、心の悪しき動きに過ぎないと。
『ダンマパダ』『ウダーナヴァルガ』などの原始経典には、「愛する人と会うな」という言葉が出てきます。なぜか。「愛」もその対象も必ず変減するからです。経典には「愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない」とすら記してあります。憂いも憎しみも恐れも、ありとあらゆる苦が、愛から、愛ゆえに生じる。まして「永遠の愛」などという観念はそうした煩悩や苦を無限に発生させる虚偽にほかならない。
このようにみると仏教が何を「悪」「悪しきもの」と想定しているかが次第に明らかになってきたのではないかと思います。「愛」という世間を成り立たせている基本的な情動すら、悟りの妨げ、障りになるとなればきっぱりと「悪しきもの」とされるのです。

武田 親鸞にとっては、「汝、悪人よ」と言われたことは、否定的なことではなくて、愛の言葉なのです。「悪人よ」と言われた時に、そこに如来の愛というものを感じ取ったということです。このことを言わないと、何か否定概念で「悪」を使われているのですが、そこに悲しみの愛というものがあって、そこに成り立つものが、親鸞的に言えば「悪」という言葉なのです。

門脇 そこで、少し気をつけないといけないのは、『歎異抄』を通して親鸞が受容されてきた時に、「罪悪深重」という問題が非常にクローズアップされて、それとキリスト教とがパラレルに論じられるという歴史が長かったことです。

キリスト教では、罪からいかに救われるかということが問題です。罪人として罪を背負って生まれた私たちがどのようにして救われるか、イエスが我々の代わりに罪を背負って死んでくださった、それを信ずるという形になっています。

ところが、仏教では、あくまでも問題は「苦」です。「苦」をどのように超えていくか、あるいは救われるか。一つにはその苦の主体である自らが無になっていく。無我というところにいく。そのためには、「煩悩」と言われるようなものが障害になる。障害になるものが「罪悪」と言われるわけです。

いわゆる「聖道門」、「自力の宗教」は、主語として、頑張って無我の境地に達する形で進んでいきます。ところが、親鸞の他力という発想は、阿弥陀さまから見て、「あなた」という形で私が呼び掛けられる。そして、「罪悪深重で煩悩がいっぱい詰まったままでよろしい」と。そのまま救われるという形で、阿弥陀さまの力で救ってあげるという、呼び掛けられる対象になってきます。

ですから、今まで主体、主語であったものが、親鸞では目的語になっている。「今、いのちがあなたを生きている」という御遠忌テーマがよくわからないというのはそこなのです。「あなたを」とは、誰かということです。あちら側からこちらへ呼び掛けられるという形です。親鸞の場合は、「親鸞一人がためなりけり」という形で、阿弥陀さまからこちらに呼び掛けられて、それで回向されて救われるという発想だと思います。

宮崎 今のお話はよくわかります。親鸞のラディカリズムはおっしゃったとおり、「この私」の主語から述語への転換、主客の転換でしょう。「この私」という感覚は、抜き難いほど私たちの心身に根をおろしてしまっているものなのですが、それが最終段階で解体され、弥陀の視点からの客体になってしまうというところは、親鸞思想の極点かもしれません。また「いずれの行もおよびがたき身」である私、悟りの境地にはほど遠く罪業を重ねた「この私」が一心に念仏を称えることで、我が無となり、やがて「弥陀のはからい」に往生するというのは、やはりキリスト教的とは言えず、間違いなく仏教の大きな流れにあるといえましょう。

武田 今のところを考えますと、一所懸命無我になって念仏を称えるというと、これは浄土宗になるのではないでしょうか。真宗ではこちらが称えるのではなくて、むしろ仏が称えている。仏が承認してくれているわけです。
まどみちおさんが作られた「さかな」という詩を紹介します。

「さかな」
さかなやさんが
さかなを うっているのを
さかなは しらない

にんげんが みんな
さかなを たべてるのを
さかなは しらない

うみの さかなも
かわの さかなも
みんな しらない

まどみちおさんの見ている自分の罪悪性、罪業性のようなものが底辺に表れています。「喜んでいるのだろう」という詩も紹介します。

「喜んでいるのだろう」
犬は喜んでいるのだろう
自分がちょうど犬くらいに
犬にして貰えていることだけは

雀も喜んでいるのだろう
自分がちょうど雀くらいに
雀にして貰えていることだけは

ヘビもフナもアリもスミレも
みんなめいめいに喜んでいるのだろう
自分がちょうど自分くらいに
自分にして貰えていることだけは

で 人間よ
もちろん きみも
喜んでいるのであってくれますように!
自分がちょうど人間くらいに
人間にして貰えていることを

そして そのうえに
犬も雀もヘビもフナもアリもスミレも
そのほかのどんな生き物でもが
みんな ちょうどその生き物くらいに
その生き物にして貰えていることをまでも
(『まど・みちお詩集「風景詩集」』かど創房)

これは頭の中で、絶対者というか、永遠の神というものがないのかもしれませんが、人間の深層では、このような表現になってこざるを得ない。親鸞で言えば、「如来回向」のように、「してもらえているのだろう」というものが深いところにはあるのではないかと思うのです。「人間にはわからない」という視点があるのです。

 

香山 知らないのと知っているのはどちらが幸せなことなのでしょうか。私は精神科に長くいて、認知症の方も長く入院していらっしゃったりするわけです。認知症のほとんどの人は、それこそ自分が今人間であることも、ほとんど自覚されていないだろうし、あるいは自分が死ぬことも知らない。
この間、がんの専門医で、認知症の人を診察している人と話していたら、その専門医が「認知症の人にがんを何度告知しても、がんであることを忘れてしまって、毎日告知しなければいけない」と言っていました。告知されたことを忘れてしまって、「あなたは大変ながんでね、余命が半年ぐらいですよ」と言っても、次の日には忘れているから、毎回告知しなくてはいけなくて、「毎日大変です」と言っていました。
私の経験だけで何のデータもないのですが、そのような人の方が長生きするケースがあります。私が見た中でも、認知症の人で、末期がんがたまたま発見されて、内科医が、「これぐらいだったらあと三カ月ですね」と言っても、そのような人たちは、一年、二年、三年と長生きする。なぜならば、それは死を知らないからです。人間は、死を知った段階で恐怖や、「死んだらどうなるだろう」という思いに取りつかれると、結局、それがいのちを縮めるのだと思うのです。私はそういうところにいて、つくづく人とは、自分が何なのかとか、死も知らないで、ただそこにいる方が一番健全な状態ではないかと思っています。
今は「インフォームドコンセント」で、何の治療もできなくても、告知することが前提になっていますが、その段階でかなりダメージを受けて、それが最終的にはいのちを縮めているという人もいると思うのです。
患者さんには「私は結局死にたいのではなくて、生まれないのがよかったのに生まれてしまった」とずっと悔いている人がいます。「生まれていなかったら、あなたはこうやって話したりもできないのですよ」と言っても、「それでも意識が生じない方が一番幸せだったのです」ということをずっとおっしゃる方がいます。

宮崎 「四門出遊」で、人間の苦の根源は「生老病死」であると門脇さんが言われました。直観的に「老病死」が苦であるということはわかるけども、それよりも前に「生」が苦の根源として挙げられています。もちろん「生まれない方がいい」とは仏教は主張しませんが、少なくとも生まれ落ちた時からこの人生が苦しみに満ちていて、いわばその生存苦を抜き去ることが、仏教の第一の課題ですね。
生存苦、命の問題が出てきたので、医師である香山さんにうかがいますが、生命倫理、生殖医療などの問題をどう考えるべきなのでしょうか。

香山 臓器移植の問題について言えば、長く続けられている議論として、「無脳児」という障害を持って生まれてしまう人のことがあります。「無脳児」とは、大脳半球のほとんどが欠如している状態です。それが今ではエコーや超音波で出生前にわかるのですが、あまりよくわからないまま生まれてしまうケースもたまにあるのです。そうすると、その欠如の範囲にもよりますが、大脳半球がなくても、生命を維持する呼吸などの器官がちゃんとあって、思考したりします。前頭葉だけが欠如しているような人もいて、そうすると生まれた後も、きちんと呼吸管理をすれば、生命が長らえられたりするわけです。けれども、だいたいは生命だけが残るというケースは少ないために、出生後、「自然死」と言いますように、日にちがたつと死んでしまう。
アメリカで、無脳児として生まれて、話すことがまったくできない人たちを、臓器の提供元として認めるかどうかという議論が続いています。その人たちは脳がないから、人ではないと。けれども健全な臓器は全部あるわけです。顔から下は全部そろっている。しかし、子どもの臓器は足りない、新生児の臓器が足りないという状況の中で、「どうせ長く生きたり、意思を持ったりできないのだから、臓器を提供すべきだ」というような議論が何度もあるのです。もちろん法制化されてなくて、今のところ認められていないのですが、「この人はどうせ亡くなるのだから、臓器を摘出して必要な人に使ってもらった方がいい」ということで、実際に実行されているケースがいくつかあります。こういう問題をどう考えるかということです。

現代とは、「人は死なないかもしれない」というところで動いているが、人生の終局点から逆向きに物事を考えることが必要なのではないか。

門脇 無脳児の具体的な例に関してはどう考えていいのか難しい問題ですけれども、そういう臓器移植が可能になってしまっている。脳死を人の死として認めるというところで、臓器移植を必要としている親にとっては、朗報であると受け取られているようですが、私の友人で、その問題を研究している人から話を聞くと、臓器移植の機会を持てる人というのはほんのわずかであるそうです。そして、子どもに合う臓器がなかなか手に入れられずに亡くなっていかれる方のほうが多いと聞きました。
そうすると、「この子のいのちはあと一年、二年だから、その一年、二年を、無限の価値のある一年、二年として過ごしていこう」と言って過ごすのと、「また駄目だった。なぜうちの子は運が悪いまま死んでいくのでしょう」と言って、一年、二年を過ごしていくのと、どちらの方が生き方としてよかったかということを考えると、「臓器移植の提供する機会が増えたから有り難い」とは単純に言えないのではないか。
今、このいのちが自分にとってどういう価値を持っているかということから考える発想が必要なのではないでしょうか。ただ生命を長引かせるとか、そういうこととは違う発想。やはり、死というところから、自分があとどれだけ生きるかという、予想点から現在を見直すという発想は非常に重要なのではないかと思うのです。

現代とは、「人は死なないかもしれない」というところで動いていますが、人生の終局点から逆向きに物事を考えることが必要なのではないかと思うのです。また、フロイトが、「タナトス」ということを考えざるを得なかったというのは、現代が進んでいく方向と、違うところで考えたいということの表れだったのではないかという気がします。それは、身体が老病死へ向けて一直線に進んでいくのを見つめる仏教の視線と重なる考え方なのでしょう。

宮崎 今日のシンポジウムは、「死」をどのように捉えるか、死を見つめることによって「生」というものを見つめ直していくという問いが基調になっていたと思います。
ここは現代を象徴する六本木ヒルズで、バブル経済を象徴するような資本主義の牙城というイメージが濃いわけですが、純粋な資本主義の運動というのは基本的に「不死」の運動です。「死」ということを知らない。投資によって利潤が得られ、その利潤をまた次なる投資に回していく。そうして無限に肥大していくのです。このゲームは「実体的な価値」に出会うまで終わりません。
あるいは、もう少し比喩的に言うならば、英語の「エンド」には、「目的」という意味と「終わり」という意味があります。「真の目的」にぶつかった瞬間に、この資本の運動は終わってしまう。バブルが実体的な価格に「出会った」瞬間に崩壊してしまう、という現象は、この仕組みの特徴をよく示しています。
ここで立ち止まって考えなければならないのは、本当にこのシステムを留保なしに肯定していいのか。「エンド」つまり目的や終わり、死ということを組み込んだ経済システムを模索すべきではないか、ということでしょう。それを教えてくれたのは「リーマン・ショック」以降の状況でした。一つの終焉が私たちに気づきの契機となったのだと思います。

武田 現代は、根本的に「人間そのもの」を問い直す時代に入ったと思います。もはや欧米の社会システムや考え方を模倣するだけでは済まされません。一人ひとりが、自分の頭で、自分の実感を通して考え始めるべきではないでしょうか。(了)

関連記事 Related Articles