法話「なぜ念仏なのか(1)」 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2019年10月24日

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なぜ念仏なのか(1)

法話「なぜ念仏なのか」

古田和弘氏(九州大谷短期大学名誉学長・大谷大学名誉教授)

本日は、「なぜ『南無阿弥陀仏』なのか」ということを、お釈迦さまにまでさかのぼって、お話しさせていただきたいと思います。

私は、大谷大学で長い間、教員を務めさせていただきました。若い学生さんと接していると、しばしばこう質問されます。「真宗では、他の宗派とは違って、念仏が大切だと言われるけれども、それはどういうことですか」と。

また、大谷大学の他にも、駒澤大学や大正大学や立正大学など、仏教系の大学がいくつもありますが、それらの大学は、それぞれ禅宗や浄土宗や天台宗や日蓮宗などの宗旨をもとに創立された大学です。私も教員時代には、それらの仏教系大学の会合に出させていただく機会が何度もありましたが、それらの大学の友人たちと話し合う中で、しばしば、「真宗の場合、南無阿弥陀仏で済ませているようだが、そんなことでいいのか」と言われることがありました。確かに、禅宗であれば「只管打坐」と言いまして、ひたすら座禅をされます。真言宗であれば、護摩の修法によって加持祈祷を行ない、天台宗であれば止観行というずいぶん厳しい行を修めておられます。そういう方々から見られると、真宗は、「何も修行をせずに、念仏だけすればいいのか」というふうに見えるようであります。

もっと言えば、真宗のご門徒さんや、そしてご住職の方々であっても、真宗の教えは、念仏に決まってはいるけれども、「どうして念仏でないといけないのか」と問われると、なかなか答えが難しいということも、よくお聞きします。

 

それでは、同じお釈迦さまから始まった仏教なのに、なぜ、このような違いが生ずるのか。これらの問題意識から、この機会に、「念仏」について、少し整理してみたいと思うのであります。

「苦」と「楽」

まず、お釈迦さまは、「一切(いっさい)皆(かい)苦(く)」ということを教えられました。「この世間に生きている限り、何をなしても、結局は「苦」を受けなければならない」ということであります。これがお釈迦さまの教えの基本であります。

それでは、その「苦」はなぜ起こるのか。それは、自分へのこだわりである「我執」をはじめとする「煩悩」によるのであると言われるのです。煩悩は一〇八種類あるとされていますが、その根本となるのは「貪欲」と「無明」です。つまり「欲望」と「無知」であります。そして、そこから生ずる「我執」から「苦」が生ずるのであります。そのために、人間は生涯ずっと苦しみ、悩み、悲しまなければならないのです。また、他人と争わなければならないのです。そのようにお釈迦さまは教えておられるのです。

お釈迦さまは、人生の真実を覚られて、「仏」つまり「目覚めた人」になられたのでありました。三十五歳で覚りを得て仏になられてから、八十歳でお亡くなりになるまで、四十五年間、毎日毎日、転々と場所を変えながら、ご自分の覚りの経験に基づいて、人々に教えを説いて歩かれたわけです。その中で、人生の「苦」を解決するには、その原因となる「煩悩」を滅した境地、すなわち「涅槃」に入り、「寂静」になることが必要だと教えられたのです。仏教の教えの基本は、「一切皆苦」の反対は「楽」ではなくて、「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」ということなのです。

私が、初めてこのことを学びました時に、違和感がありました。「一切皆苦」と言うけれども、われわれの日常には、確かに「苦」もありますけれども、「楽」もあるのです。「苦」も「楽」も両方経験するのです。

ところが、お釈迦さまは、「苦」と「楽」とが入れ代わり立ち代わり起こるのが人生であり、その全体が「苦」なのだとおっしゃっているのです。しかも、「苦」と「楽」は確定的なものではなく、状況によって違うと言われるのです。同じ事柄であっても、ある時は「苦」と感じ、ある時は「楽」と感じるのだと教えられたのです。

例えば、財布を開けてみると一万円札が一枚入っていたとします。「一万円もある」と思って喜ぶ人もいます。しかし「一万円しかない」と思って悲しむ人もいるのです。

空腹のときには、どんな食べ物をいただいても、喜んでいただきます。おいしくいただきます。「そんなにおいしいのだったら、もっと食べなさい、もっと食べなさい」と言われ続けたら、それが苦痛に変わります。そのようなことの繰り返しが人生だとおっしゃっているのです。

しかも、同じことが、条件によって、「苦」となったり「楽」となったりするのです。つまり「苦」と「楽」とは「縁」次第ということになるのです。ですから、「苦」は「楽」によって生じ、「楽」は「苦」によって生ずることになるのです。この「苦」の反対は「楽」ではなく、「苦」も「楽」も生じない「静」であるということなのです。何事にもこだわらないことが、「苦」の解決であると教えられたのです。これがお釈迦さまの教えの基本であります。

それでは、その「寂静」を得るためにはどうすればよいのか、ということになります。

>「なぜ念仏なのか(2)」

 

 

古田和弘(ふるた・かずひろ)

1935年京都府生まれ。大谷大学文学部仏教学科を卒業後、大谷大学教授を経て、九州大谷短期大学学長となる。現在は、大谷大学名誉教授、九州大谷短期大学名誉学長。専攻は仏教学(中国仏教)特に涅槃経を研究する。著書に『宗祖親鸞聖人に遇う』『涅槃経の教え』『正信偈の教え』(上・中・下)などがある。

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