お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―|大人の寺子屋コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年08月27日

Category 法話

お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―

お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―①

お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?

知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。

この抄録は第3回「お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―」の抄録①です。

 今回は、お釈迦さまが出家の後、どのような修行をして、どのようなことを覚ったのかということを通しながら、私たちの人生における不安や、生きる意味について尋ねたいと思います。

 初めに、少し注意すべきことがあります。それは、「仏教とは何か」「お釈迦さまの覚りとは何か」ということを理解することと、私たちがその覚りを体験し、自らの心で受け止めることとは異なるということがあります。

 お釈迦さまの「覚り」の内容といっても、それはあくまでも言葉に表現されたものであり、やはりお釈迦さまの言葉を通して、私たち自身が、覚られた内容やお心に出遇っていくしかありません。それは自己の存在への「目覚め」でもあります。「覚り」は、私自身への目覚めなのです。仏道は、その自己に目覚める智慧を獲得して生きていくことです。そこにサブタイトルに掲げた不安という問題と仏教との接点があります。

私たちの不安

 さて私たちは、不安を感じる時にどう行動するでしょう。宗教に関わるところでは、神社やお寺に行って、おみくじを引いたり、祈願をしたり、お守りをいただいたりということが多いと思います。一般的な仏教のイメージは、私たちの願いを叶えてくれる宗教ということではないかと思いますが、幸せが訪れるように、悪いことが起こらないようにと神仏にお願いするというのが、多くの方の仏教との関わりではないかと思います。そういう意味で不安は、仏教との接点ともなっています。でもそうした神仏への願いと、仏教が教えようとすることが一致しているのかということが問題です。まず私たちの不安ということを考えてみます。

 不安とは、安心できないことや心配ということなのですが『岩波哲学・思想事典』(岩波書店)ではこう書かれています。

 

一定の対象をもたずに恐れを感じている気分。自分を脅かす危険な対象が目前に存在していてこれにひるんでいる感情を恐怖と呼ぶのに対し、不安は自らに襲いかかるものを特定することができないまま自分の存在があやうくされていると感じる情動である。

 

 単純に言いますと、不安は未来の不明なものによって自分が脅かされることであり、対象が特定できる、直接的なものに対する感情は恐怖ということです。

 例えばこの先に崖があるかもしれない、危険なものがあるかもしれないと思って、いつ、どの時点に何が来るのかと思っている状態が不安です。それが恐怖になると、もう目の前に崖がもう目の前に見えている状態です。対象がはっきりしているかいないかの違いです。

 またキルケゴール(哲学者)は、『不安の概念』という本の中で「不安とは自由への目まいである」と言っています。私たちにはさまざまな選択ができる自由があるけれども、その選択の先にどのような結果が待ち受けているのかわからない。だから不安になる。そして選択したその先に希望がないとわかると絶望に変わります。

 確かに私たちの日々は、さまざまな選択の連続です。その選択した行動が幸せにつながるのかはわからないままに選択を迫られ、不安を生きている訳です。その不安の先に見え隠れしているのが「死」でしょう。私たちは未来の幸せへの希望の影に、いつでも死の不安を抱えて生きている。それが病気を患ったり老いたりすることで、直接的に死を恐怖の中で受け止めざるをえなくなります。それが私たちの人生における不安と恐怖でしょう。

 これは大人だけの問題ではなく、子どもでもそういう不安は感じているのでしょう。私自身の体験ですが、小学校1年生前後の頃、何度も同じ夢を見た経験があります。真っ暗で真空のような、何もないような空間に自分がいるのですが、ふと気づくと今度は逆にまるで土に埋められたように、存在すべてが圧迫され、押しつぶされるという感覚がするという夢でした。色は何もない。それが非常に怖くて、不安でした。後々考えてみると、自我が育っていく中で社会を知り、それまで親の手元の中で自由に振る舞っていた自分が、人間関係の中で押しつぶされるような予見を、子どもながらに感じていたと思うのです。小さい子どもは死を理解できないと考えてしまいがちですが、子どもであっても自己がなくなる、自己への圧迫というものを感じているのだと思います。

 このように不安は不確かな未来に対する感情であり、その先に死、あるいは自己存在の否定を見据えて不安があるという、未来を見通すことができない私たちには本質的な感情であると言えるでしょう。だからこそ確かさを求める心が生じるし、そこに宗教も求められる。それに対して、では仏教はどのような教えなのかということを次に考えてみます。

≫お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―②に続く

 

 

鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授

1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。

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