2020年08月28日

Category 法話

苦行を棄て覚りを開いた

お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―②

お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?

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この抄録は第3回「お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―」の抄録②です。

 お釈迦さまは老病死の苦を超えるために出家をされたのですが、お釈迦さまは老病死に対する苦を生じないよう修行を始められます。

 お釈迦さまは出家してまずアラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタという二人の師匠のところに向かいました。この二人は、心静かに瞑想し、それによって心身ともに動揺をなくし、安定した状態になることを説きます。また、何も認識するものがないという状態を突き詰め、何かを認識するのでもなく、認識しないのでもないという境地に至るそうです。

 心を静める、心が定まった境地ということですが、私たちも、本を読んだり芸術を鑑賞したりすることで、心が少しは洗われた気分になることがあります。色々な心に振り回されないそのような精神状態は、私たちも欲しいと思うものでしょう。老病死の苦ということによって振り回されない、禅定つまり静かな心の境地をお釈迦さまは求められたのです。しかしこの修行は、瞑想に入っている時にしか心の定まった境地に入ることができないので、結果的にこの行は止められました。

 次に、苦行を行います。6年間勤められたと言われています。物に執着せず禁欲したり、沈黙を守ったり、髪や髭を抜いたり、何週間にも渡って断食も行ったり、さまざまな苦行があります。そうして肉体のはたらきを極限まで抑え、欲望を抑え、精神力を鍛えていかれたのでした。さらに苦行を進めると、不思議な力を得ることができると考えられ、それが苦行の目的でもあったそうです。しかしお釈迦さまは、体を痛めつけて、心を鍛えようとしても、老病死の苦を取り除くのに役に立つものではないと気づかれ、苦行も止められました。

 禅定も苦行も、老病死に対して苦が生じるという心の問題に焦点があります。不安と言うことで言えば、不安に対処するには、未来を確かなものとするか、不安を感じないようにするかがあります。幸・不幸の出来事に対する不安であれば幸ある未来を確かなものにする行動が、限界はありますがいくらかはとれるかもしれません。しかし老病死はそもそも確実な未来です。ただ、いつどこでどのように老病死するのかは不確かであり、不安の感情を生じさせる。いつまでも若く健康で生きられるということを確実にすることはできないのですから、この不安は未来を確かなものとするということでは取り除けない。そこでは不安や恐怖を生じることそのものに問題の焦点があるということです。

 お釈迦さまは、苦行を棄てた後、修行によって痩せ細り、汚れた体を沐浴で洗い流します。そして通りがかった村娘に乳粥をいただき、弱った体を癒やして、ピッパラ樹(菩提樹)という木の下で端座して瞑想に入られたそうです。そしてお釈迦さまは、覚りを開かれました。この覚りの境地を、ニルヴァーナ(涅槃)と言います。煩悩の火が吹き消された静かな境地のことです。つまり、お釈迦さまは煩悩を吹き消し、苦が消滅したのです。その覚りが「縁起」ということに関わってきます。

 「縁起」は、仏教の中心思想で、一切のものは種々の因や縁によって生じるという考えを表しています。因と縁は同じような意味でも用いられますが、区別すれば因は直接的な原因、縁は間接的な原因や条件を指します。

 例えば、リンゴの種を植えます。芽が生えて、木になって、リンゴの果実が採れる。リンゴの果実の直接的な原因は、種です。しかし、種があるだけでは果実にはなりません。植える人がいたはずです。そこに豊かな土と水があります。そして、太陽に照らされることも必要です。このような条件が重なって果実になる。この全体を因果と言います。原因と結果ということです。これが単純な縁起ということです。

 そして『阿含経』という古い経典の中にお釈迦さまの次のような言葉があります。

 

おおよそ因縁によって集まり生起する性質のものは、

すべて消滅する性質のものである。

 

 つまり、縁起であるというのは、さまざまなものは因縁によって生起するものであるから、変わり続け、消滅していくものであるということを意味するということです。諸行無常という有名な言葉があります通り、縁起であるから一切は因縁であり、生滅変化して、固定したものはないということが、お釈迦さまの覚りであったということです。

 さらにまた仏教の根本的な思想として「無我」という思想があります。私たちは「我」を前提とし、「私」ということを疑いないものと考えています。しかし、仏教の「無我」の思想は、そのような固定した「我」は存在しないという思想です。仏教では、物質的な肉体や感覚器官、心などさまざまなものが仮に和合して、今、私という意識が生じているのだと考えます。つまり「我」も縁起であり、生滅変化するものです。私というものがまずあって、そこからものを考えているのではないのだと言いうのです。

 突然地震が起きれば、今、静かにしている心は、すぐに変わります。それは私が驚こうと思って驚いたのではなくて、縁によって驚く心が起こったのです。条件によってさまざまに考える私が起こるのです。そのように「我」ということも縁起によって生じているのです。しかし、私たちは「私が考えている」と認識しています。その認識を我執と言います。

 さて仏教がこのような縁起ということで問題にしているのは、老病死に対する苦です。その苦は縁起の道理によって生じているのであり、その道理に従って生滅するものであるということなのです。つまり苦は煩悩という原因によって生じているのであるから、その原因である煩悩、「我」があるという我執を消滅することによって、生滅変化していく自己自身を苦と受けとめる心もまた消滅するということにお釈迦さまは目覚め、その境地に立たれたのです。これが涅槃の境地になります。この縁起の道理を覚ることによって、お釈迦さまは苦を超えたのです。ただ老病死の苦を超えると言っても、老病死がなくなるということではありません。煩悩によって苦しむことがなくなったということです。

 苦行や瞑想というような修行は、心を静めたり、自分の心を鍛えることによって苦を超えていこうとします。それは老病死を見ても苦を生じないような「私」に成るということでしょう。それに対して仏教は、縁起であるから私という意識が生じるし、また煩悩から苦が生じるのだという、縁起の道理を正しく認識をすることによって、苦から解放されるということが重要なポイントです。

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鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授

1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。

 

 

写真/児玉成一

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