私にとって〈報恩講〉とは何か|法話 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年02月27日

Category 法話

私にとって〈報恩講〉とは何か

2019年11月28日 真宗本廟 報恩講「祖徳讃嘆」

宗祖親鸞聖人の祥月命日の11月28日、御満座(結願日中)の前に行われる「祖徳讃嘆」は、宗祖親鸞聖人の御真影のもと、宗祖の恩徳を讃嘆し、本願念仏の教えをいただく場です。

この抄録は、池田勇諦氏にお話いただいた講演の内容について掲載します。

御影前に詣でて自問すること

わがちからも、さとりもいらぬ他力の願行を、ひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転の故郷にかえらんこと、かえすがえすも、かなしかるべきことなり。釈尊も、いかばかりか、往来娑婆八千遍の、甲斐なきことをあわれみ、弥陀も、いかばかりか、難化能化のしるしなきことを、かなしみたまうらん。もし一人なりとも、かかる不思議の願行を信ずることあらば、まことに仏恩を報ずるなるべし。

 

 全国各地からのご上山、まことにご苦労でございました。今日は、宗祖親鸞聖人の御正忌報恩講の御満座でございます。勤行に先立っての、この祖徳讃嘆のご縁をいただいたことであります。『真宗聖典』九五三頁に見える『安心決定鈔』の一節を讃題に、そなえたことでございます。

 さて、こうして皆さん方、御真影の前に詣でられた今、最も大切なことは何でしょうか。この報恩講にお参りをして、何が一番大切なことか。どう思っておられるのでしょうか。

 それは、「私にとって報恩講とは何か」、この一点を自問すること、自らに問うことでないかと思います。私にとって報恩講とは何か。この「私にとって」という一言が抜け落ちますと、報恩講にお参りをしても第三者的な、いわば見物人の立場で終わってしまうわけです。まことに所詮のないことであります。だから、どうしても私にとって報恩講とは何か、これを自分自身に問うことであります。

 そうすると、そこに一つ、私自身はっきり言わせていただけることは、「報恩」は「知恩」に始まる。だから、その知恩の点検が私にとっての報恩講のご縁ではないかと、こう申し上げたいことであります。

 報恩は、恩に報いると書かれてあります。この恩は、もとより一般的な恩ではありません。宗祖聖人の教えの恩徳を指しているわけです。ですから、その教えの恩徳に本当に自分自身がお遇いしているのか。その一点です。これを自らに問う。

 それは言葉を換えれば、親鸞聖人の教えを本当に確かに聞き開かせていただいておるのか。知恩ですね。恩徳を知る。本当に恩徳に遇っているのか。この確認こそが、私は、こうした報恩講に遇わせていただいた、何より大切なことなのではないかと思うわけであります。今、わずかな時間ですけれども、その点の確かめですね。そのことを一言申し上げたいと思うわけでございます。

※この抄録は真宗大谷派発行『真宗』誌2020年2月に掲載された内容の転載です。

終活ということ≫

池田勇諦(いけだ・ゆうたい)

1934(昭和9)年生まれ。真宗大谷派講師。三重教区桑名組西恩寺前住職。東海同朋大学(現・同朋大学)卒業。現在、同朋大学名誉教授。著書に『教行信証に学ぶ』全9冊(東京教務所)、『仏教の救い─アジャセ王の帰仏に学ぶ』全5冊(北國新聞社)、『親鸞聖人と現代を生きる』『浄土真宗入門─親鸞の教え』『真宗文庫 親鸞から蓮如へ 真宗創造─『御文』の発遣─』(東本願寺出版)など、他多数。

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