「根のない樹」 | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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法話

「根のない樹」

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日曜礼拝
藤場 芳子氏(石川県・常讃寺副住職)

藤場 芳子氏

 講題を『根のない樹』としましたが、正確には「樹の根なきに似たり」という一節が蓮如上人の『御文』(お手紙)の中で記されており、今日は『根のない樹』として紹介させていただきます。この言葉がある時耳に飛び込んできまして、私のことを言い当てられたと思いました。 自然界には根のない樹はありませんね。一般的に立派なというのは、枝ぶりが良く、たくさんの実がなることを言います。
 人間を樹に例えるなら立派な枝ぶりは地位や名誉、学歴です。どうしても人間は、周りからの評価が気になります。人に見える部分だから、評価ばかり気にするわけです。なのでもっと評価されるように頑張るわけです。しかし実は根が無いわけですから、何か起きた時にはぐらついてしまいます。今まで見えるところばかり頼りにしきたが、それは本当の意味で自分を支えるものなのかと問われ愕然となったのが、この「根のない樹」という言葉です。

仏道を歩んでいる人は迷わないと思いませんか。「衣を着ているお坊さんは迷わないでしょう」とか「悩みは無いでしょう」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんがそんなことはありません。実は仏道に触れ始めると迷うのです。仏教には娑婆(世間)のものさしではないものさしがあることを教えてくれています。こうあってほしい、こうあるべきだというものさしで縛っていたことに気づかせてくれるのが仏様のはたらきです仏様に出遇うと迷い始め、揺らぎ始めるのです。

 しかし、根が無い私だからこそ仏法を聞いて根をはろうとしてしまいます。根を張って立派な人間になっていきたいんです。仏教すら利用してしまう。立派な人になりたいという意識は抜けないのですね。これは善人意識です。
 「愚者になりて往生す」(法然上人の言葉)という言葉がありますが、そんなことはなかなかできないのです。「愚かなものだとわかっている」えらい自分なのです。仏法を利用してまでも自分が上がっていきたい。上は我執、下にも伸びようとするのが法執。その全てが自分なのです。“真宗を学ぶ”のだとしたらそれは、知識を詰め込み、仏法を対象化してしまうことになります。そうではなく“真宗に私を学ぶ”。何を学ぶのか、自分が何者であるのかを仏法にたずねていくのです。

 今、私の住んでいるお寺に次のような法語を掲示しています。『一人でいると孤独感、二人でいると劣等感、三人でいると疎外感』というものです。この言葉は、他のお寺さんに掲示されていたものですが、私のお寺では文末に「あなたはあなたのままがいい」と付け加えました。「孤独感、劣等感、疎外感」は人間の現実の問題です。これは仏法でいう機ということで、「あなたはあなたのままがいい」は仏法でいう法ということになります。

 日常会話の中で私たちが言えるとしたら「あなたはあなたのままでいい」というのがせいぜいで、「あなたはあなたのままがいい」ということは言えないのです。もしわが子に言ったら、本心でないことが見透かされてしまいます。「あなたはあなたのままがいい」とおっしゃってくださるのは仏様です。人は皆それぞれに光っているのだということ。しかし、私たちにはそれがわからない。五濁という言葉で表現されるように私たちは濁りのなかにいるために眼差しが曇っているから本当の姿が見えないのです。

 阿弥陀様は私たちにお念仏を届けてくださいました。そこには願いが込められています。「確かに受け取りました。ありがとうございます。」というのがお念仏申すことなのです。そこには2500年前のお釈迦さまの時代、親鸞聖人が生きた時代、そして今を生きている私のところまでお経の言葉が伝えられたように、生きることに対する人間の根本課題が伝えられているのでしょう。
 私たちの生き方を問い直して、揺らぐ自分、根のない自分を受け止めていきたいものです。

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