自分との和解|大人の寺子屋コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年04月20日

Category 法話

自分との和解

そもそも仏教とはどんな宗教?ー宗教と仏教⑦

お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?

知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。

この抄録は第1回「そもそも仏教とはどんな宗教?-仏教と宗教」の内容⑦です。

 

 このように、「目覚める」ということが、私たちにとって本当の幸せなのだとするのが、仏教です。

 一見、特殊なように見える宗教、仏教ということも、こうして、教えと行動という構造に注目してみますと、一つの幸福に到る方法論のように考えることができます。その方法論が、私たちの日常の価値観と異なるので、異質なもののように見えるわけです。

 私たちの日常の価値観では、お金や、家族や友人がある穏やかな生活であるなど、豊かな生活というイメージがあり、それが幸せだと思っていますが、仏教では、それらは迷いであり、「目覚める」ことに人間にとっての幸せがあると考えます。そこが違うのですね。だからそこからの方法論も違ってくるのです。

 ではなぜ自分のあり方に「目覚める」ことが幸せに関係するのか、と思われるでしょう。私自身、悩みを抱えて生きてきましたが、その中でずっと私が求めてきたものは、「私自身への目覚め」にあったと思っています。それを私は、「自分自身との和解」と表現しています。自分へのコンプレックスや、不遇感、あるいはうまく行かないことであったり、老病死であったり、自分自身を喜んで生きるというよりも、むしろ自分自身をいつも嫌い、嫌がっているのが、私自身です。ですが仏教が教えるのは、自分自身がかけがえのない、誰も代わることのできない存在であるという、自分自身への「目覚め」を仏教は教えていると考えます。

 

比べなくていい

「吾当(われまさ)に世において無上尊となるべし」(『仏説無量寿経』)

 

 経典にはこのようなことが説かれています。私は必ずこの世において無上なる存在となるはずである、なるべきである、という意味です。有名な言葉に言い換えると「天上天下唯我独尊」です。これはお釈迦様誕生のエピソードを元に、人間という存在がどういう存在なのかということを表そうとして、経典はこのような説き方をしているのです。

 お釈迦様は生まれてすぐに七歩歩いて、「天上天下唯我独尊」と、このようにお話しになられました。もちろん、人間が生まれてすぐに七歩歩くことはありません。言葉を話すこともありません。しかし、このことを仏教徒は大切なこととして、ずっと伝えてきました。

 この言葉の意味するところは、「全世界においてただ我一人のみ尊い」ということです。ただし、それは自分だけが尊いのだということではなく、すべての存在が仏となるべき存在であり、「それぞれ一人ひとりが尊い存在なのだ」ということです。私たちは、生まれた時は自分では何もできない存在ですね。誰かに養われなければ、その場で死んでいってしまう存在です。しかし、この何もできない存在が尊い存在となるべき者である、と宣言するということが重要です。

 私たちは、何もできないより、何かができる方が価値がある、尊いと思っています。勉強や仕事、いろんなことができ、いろんなものを持っている者が尊いと思っている。しかし、何かができるとか、そういう条件もなく、何もできない存在が尊さを宣言するというところに、実は人間が目覚めるべき、無条件の、平等な尊さがあるということを教えていると思います。それがわからなくて、私たちは苦しむのです。いつでも他人と自分を比較し、さらに理想の自分、こうなったらいいと思う自分を思い描いて、今の自分と比較してしまうのです。そして、こうならないと嫌だと、自分に条件をつけるのです。

 「無上尊」といわれる、「この上ない尊さ」というのは、下にたくさん人がいて自分が一番上という意味ではなく、比較するものがないということです。上も下もなく、一人ひとりが比較することのない尊さを持っているということを表しているのです。だから「世において無上尊となるべし」とは、社会のさまざまな価値観の中で自他を比較し、さまざまに自分に条件をつけて尊さを求めている私たち一人ひとりが、誰とも比較することのない尊さに目覚めなければならない、それが生をえた存在の課題であるということを言い表しているのである、と思います。

 

 私たちは幸せになりたいし、何かをしたい。しかしそれによって一体何を求めているのでしょうか。本当に求めているものは何でしょう。それを仏教は、「一人ひとり、自分自身の尊さに目覚めること」であると教え、その道を歩むよう勧めているというのが、この故事の表すところですね。一人ひとりが、誰とも比較することなく、「自分というものを生きる」、その尊さに目覚める。これが仏教の教えていることです。これは、現代という時代、先行きが見えない不安の中で生きる私たち現代人にとって、大事なことだと思います。

 この講座では今後、そうした現代の視点から仏教の教えを確かめていきたいと思っていますが、そのために今日はまず、宗教を教えと行為と結果という、こうした構造を持つものとしてとらえて、生活と宗教の関係、そして宗教の中でも仏教の教えの特徴を確かめ、私たちの生活に引き当てて考えてみたことでした。

 

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鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授

1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。

 

 

写真/児玉成一

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