仏に成る教え|大人の寺子屋コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年04月20日

Category 法話

仏に成る教え

そもそも仏教とはどんな宗教?ー宗教と仏教⑥

お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?

知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。

この抄録は第1回「そもそも仏教とはどんな宗教?-仏教と宗教」の内容⑥です。

 仏は梵語でブッダ(Buddha)という言葉の音訳です。元々、ブッダという言葉は「目覚めた人」という意味の普通名詞です。特定の誰かを表しているわけではありません。インドの古代で言えば、目覚めた人はみんなブッダです。インドには今でもジャイナ教という宗教があり、お釈迦様と同じ時代に生きたマハーヴィーラという人が開祖です。この方もブッダと言われています。その後に仏教が発展していくと、ブッダはお釈迦様一人のことだということで固有名詞のように言われるようになってきました。

 このように仏は「目覚めた人」という意味であることを考えますと、仏教という言葉の意味を次のように考えることができます。仏教は、「目覚めた人」が説いた「教え」だとすることができます。これはわかりやすいですね。ですが、お釈迦様は目覚めたけれども、まだ目覚めていない人には、「目覚め」の内容はわからないし、そもそも「目覚めた人」ということもわからない。そうしますと、お釈迦様を「目覚めた人」と受け止めることが、第一に問題になることです。ですから「目覚めた人」が、「目覚めた人とは何か」ということを説く教えということが、まず最初に重要になります。

 お釈迦様の最初の説法にこのようなエピソードが残っています。

お釈迦様はお覚りになった後、元々一緒に修行をしていた5人の修行者たちに説こうとしました。そして、お釈迦様が修行者に近づくと、修行者たちは「あの人は堕落した人だから立って迎える必要はない」と約束します。しかしお釈迦様が近づくにつれ、はっとして修行者たちは「友よ」「ゴータマよ」と立って迎えたのです(お釈迦様の名前は「ゴータマ・シッダールタ」と言います)。しかし、お釈迦様はこう言います。

 

「私を修行を完成した者と呼ばなければならない、ゴータマと呼んではならない」

 

 そして、「あなた方も同じように目覚めた人と成る」と言って教えを説こうとされました。しかし修行者たちは、あなたがなぜ完成した者であるのかと非難したのです。「目覚めた人」であることを認めなかったのですね。お釈迦様は覚者の言葉に耳を傾けよと言うのですが、そのやりとりが3度繰り返され、遂に修行者たちが認め、教えが説かれ、その時、お釈迦様とともに5人の新しいブッダが生まれたのです。これが、お釈迦様の教団の始まりです。

 このように「目覚めた人」そのものを明らかにするのが、仏教との出会いの最初になります。それは、修行者たちが立って迎えないと約束したのに思わず立って迎えたように、最初の方でお話しした非合理的な側面にも関わりますので、この辺にいたしますが、私たちは、お釈迦様を仏とすることを当然のように思っていますが、そもそも仏と出会うということが課題なのですね。

 話を戻しまして、この修行者たちへの説法において、お釈迦様が「目覚めた人」であることを明らかにし、その覚りの内容を説き、そして新たに「目覚めた人」が生まれていったのです。ここに仏教ということの意義が明確に表されています。つまり、仏教は、「目覚めた人」とは何なのかを説く教えということが1番目の意義です。そして「目覚めた人」が説いた真理についての教えということが第2の意義です。さらに、その真理に「目覚めた人」に成る方法を説く教えということが3番目の意義です。ですから、お釈迦様の覚りによって何か救われるというのではなく、仏に出会って教えを聞き、同じ覚りに到るというところに、仏教の特徴があります。

 このように仏教では、天国や恵みを与えられるのではなくて、覚りが与えられるわけです。その覚りが与えられるということによって、「仏に成る」のです。つまり、仏教とは、仏に成る教えです。これが他の宗教と違う特徴的なところです。キリスト教では、人間が神に成ることはありえません。神道でも、一部の人が亡くなった後に神として祀られるという考え方はありますが、神道の教えによって高祖神そのものに成る、あるいは神に成りましょうということはないでしょう。

 しかし仏教は、覚りをえた人の教えによって、一人ひとりが目覚めた存在、「仏」に成っていくのです。その方法がインドから中国、そして朝鮮、日本と渡って、教えに少しずつ違いがでてきますが、基本的には仏に成る方法を説いています。

 例えば天台宗の比叡山では、「千日回峰行」と言って、1000日間にわたって山の中を走り回ったり、あるいはお堂にこもったりする大変厳しい修行があります。これも目覚めるための修行です。また、「座禅」も目覚めるための修行です。

 その中で「浄土宗」や「浄土真宗」という宗派がありますように、「阿弥陀仏の浄土に生まれる」ということを説く教えがあります。この浄土への往生は、極楽往生という言い方もしますね。勘違いされやすいのですが、それは楽なところ、楽しいところに行く話ではなく、仏に成りに行くのです。ですからこの楽は、私たちの思う楽ではなく、煩悩を滅した、涅槃という究極の楽を意味します。極楽は、そこで修行して目覚めるために行くのです。

自分との和解≫ に続く

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鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授

1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。

 

 

写真/児玉成一

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