無量寿なるいのち|法話 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年02月27日

Category 法話終活

無量寿なるいのち

2019年11月28日に行われました真宗本廟「報恩講」池田勇諦氏にお話いただいた講演の内容の抄録です。

それを親鸞聖人にお聞きすれば、私たちはいつもそれを聞かされておるのでした。最も身近には『正信偈』。最初、「帰命無量寿如来」、無量寿如来に帰命すると。これは「無量寿なるいのち」に目覚めて生きよ、ということでしょ。死んだらしまいといういのちではなくて、無量寿なるいのちに目覚めて生きよと。

 私たちは、いのちというと、この肉体に閉じ込められたいのちしか知らないんですよ。ところが今、無量寿なるいのちということは、この肉体の縛りから、束縛から解放された真実なるいのちなんですね。無量寿なるいのちに目覚めて生きよと。

 今、多くを申し上げておれませんが、無量寿なるいのちとは、もう一つ言葉を出せば、「無我なるいのち」です。我、無しと。この「我、無し」という「無」は、存在の無ではありません。何もないということではありません。所有の無です。今日の私というのは、自我意識でしょう。自我意識を自分として生きているのが、今日の私。その自我意識で考えているような我は無いということが、「無我」ということでしょ。

 無我と言いますと、直ちに、無我になるとか、なれないとか、そういう話になってしまう。「なかなか無我にはなれませんのでね」、なんて精神論にしてしまうわけですが、そうではなくて、本来、存在論ですからね。無我であることに気づく。それだけですね。無我であることに目覚める。

 そうであれば、この存在が、真に無量寿なるいのちということは、私を超えた大いなる法のはたらき。それを根本的に言えば、因縁果の法則です。因縁果の法則によって運ばれておる、この存在です。自我意識としての私の考えの支配下にある存在ではございません。

 そのことはいちいち申すこともございませんが、この存在の根本である「生老病死」ということを見ても、これは皆さん方がいつもお聞きのように、「生まれた、老いる、病む、死ぬ」、どれを取ってみても、自我の私の考えの支配下にはないでしょう。

 私たちは、生まれた限り必ず老いる。なぜ老いるのですか。他力だからです。「因縁他力」だからです。自我意識の自力(思い)が間に合うのなら、私たちはいつまででも若いでしょう。老化することはないでしょう。なぜ私たちは病気をするのか、病むのか。「因縁他力」だからです。

 私の考えを超えた因縁果の法則によって運ばれておりますから、因縁が整ったことは必ず現れてきます。因縁が整わない限りは、いくら望んでも遇うことはできません。だから、出てきたことはしっかりと受けとめる。これ以外に道が開ける方法はございません。

 そういう意味で私たちの存在は、「法身」で、法のはたらきそのもの、法則そのものの活動態であります。その意味で、現前のこの一呼吸が、まったく法則の、はたらきそのものの、一呼吸ですね。

 ここを『末燈鈔』には「自然のよう」(『真宗聖典』六〇二頁)、自然必然のありさまとあります。それゆえ「みだ仏は、自然のようをしらせんりょう(料)なり」(同前)。これ「仏力他力」です。まさに「因縁他力」と「仏力他力」の一体の活動態としてある、この存在のもついわれではありませんか。しかし自我のわれの生きざまは、そうした真実のいのちに暗く、かぎりなくこの存在を私物化して「ままにならぬ」と愚痴ることしか知らぬありさまです。この自我のわれを、ごまかしなく照らし出す「仏力他力」への帰依に成り立つ「一切の有碍にさわりなし」(『真宗聖典』四七九頁)の救いではありませんか。

 そうした気づきに立つ時、先に亡くなった方がどこへ逝かれたかということも見えてくるでしょう。だから、ご住職にお尋ねなされば、必ずそのことを聞かせてくださるに違いない。自分の逝くところ、方向がはっきりすれば、先に亡くなった方の逝かれたところも分かる。そうですよね。

 

どんないのちを生きているのか

本当に、この終活という、今日の大きな問題は、繰り返すようですが、私たちに「あなたはどんないのちを生きているのですか」と、最も大切な一点が問い掛けられてきている出来事なんですね。この問いが、本当に自分自身、明らかにならなければ、生きたことにならんのではないでしょうか。

 蓮如上人はおっしゃっていますね。「たのむべきは弥陀如来なり」「まいるべきは安養の浄土なり」。と(『真宗聖典』七七二頁)。「たのむべきは弥陀如来なり」、これは拠りどころ。「まいるべきは安養の浄土なり」、これは方向です。拠りどころと方向が明らかになる。そのことが終活ということから私たちは問われているのではないですか。「おまえ、それがはっきりしたか」ということです。

 その意味で終活は人生の店じまいをすることでなく、却って店開き、自分の最も大切な問題に取り組むことです。遅くはありません。気づいた時が出発です。

 報恩講に遇わせていただきましたことにおいて、あらためてこれをよくよくわが身自身に聞き開かせていただかなければならない、聞き開かせていただきたいと願わずにいられません。

 何か申し足りないことでありますが、今日、こうして皆さん方がご上山になったしるしに、ぜひとも一度、自らに問うていただきたい。そのことを申し上げて、祖徳讃嘆を終わらせていただきます。ありがとうございました。

※この抄録は真宗大谷派発行『真宗』誌2020年2月に掲載された内容の転載です。

≪終活ということ

池田勇諦(いけだ・ゆうたい)

1934(昭和9)年生まれ。真宗大谷派講師。三重教区桑名組西恩寺前住職。東海同朋大学(現・同朋大学)卒業。現在、同朋大学名誉教授。著書に『教行信証に学ぶ』全9冊(東京教務所)、『仏教の救い─アジャセ王の帰仏に学ぶ』全5冊(北國新聞社)、『親鸞聖人と現代を生きる』『浄土真宗入門─親鸞の教え』『真宗文庫 親鸞から蓮如へ 真宗創造─『御文』の発遣─』(東本願寺出版)など、他多数。

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