「終活」で本当に大事なこと③|終活コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2021年10月28日

Category 終活

「終活」で本当に大事なこと③

―「福祉」と「仏教」の視点から―

仏教的視点からあらためて終活のことを考えてみます。「自分のことは自分で決めたい」「家族にはできるだけ迷惑をかけたくない」という思いで終活をしてきた方、もしくはこれから終活を始めようという方に向けて、特に福祉や介護のことを取り上げながら、知っておくべきことを尋ねていきます。

※このコラムは2021年5月30日に開催された大人の寺子屋ウェビナー「終活で本当に大事な話~仏教×福祉・介護編~」の抄録です。

「死の縁無量なり」

 財産相続などの法律が関わってくる「終活」的取り組みは、事前の準備でうまくいくことがあります。しかし、「老病死」の問題、あるいは、「どのように」「どこで」亡くなるのが希望なのかという終末期医療の問題については、人との関わり(家族状況など)、経済状況の中で変化するため、必ずしも思いどおりにいく事柄ではありません。どういう介護を受けたいかも同様だと思います。

 仏教に「死の縁無量なり」という言葉があります。これは親鸞聖人の曾孫にあたる覚如(かくにょ)の言葉(『執持鈔』)です。生まれた限り死は定まっている、しかし、その亡くなる縁は無量である。つまり、いつ、どのような亡くなり方をするかわからないというのが私たちの「生」であると押さえています。病気になるかもしれませんし、あるいは交通事故など不慮の事故に遭遇して亡くなる場合もあるかもしれません。

 「終活」では、穏やかに高齢まで、最期まで生きていけることが前提となります。しかし、極端な話をいえば、交通事故にあって救急車で運ばれているその時に、延命治療の有無まで判断しなければならない状況も起こりえます。未来の不確かなことを「終活」という取り組みの中で私たちは決めようとしているという認識が必要であると思います。その認識も持ちつつ、自身が何を大切に生きたいかを考える機縁となる「終活」の取り組みをおすすめしたいと思います。

仏教が語りかける「自然」

 では具体的に、どういう視点で考えていくことができるのでしょう。まず、延命治療を望むか望まないかに関しては、「自然死がいい」というマスメディアや、現代の社会通念のみで判断するのではなく、「老病死」は私たちの道理であるという眼をもつことが大事でしょう。「自然(じねん)」という仏教の教えにあるように、「老いる」「病む」「死んでゆく」ということは、この身、この命を生きている限りは逆らえないという、まずそういった視点を仏教の教えに聞きつつ、選択肢として終末期医療(延命治療)について考えると良いのではないでしょうか。現代、医療が発展し、私たちは命の長さまでをも選択できるかのような時代にいます。しかし、「自然(じねん)」という言葉をもって、仏教は常に私たちに語りかけます。

 そして、仮にどのような選択をしたとしても「死の縁無量なり」ですから、私たちは、いつ亡くなる、その亡くなり方、つまりは最期を決めることはできません。厳しくもありますが、仏教の徹底した考え方であると私は受け止めています。

 それですから、たとえば具体的には、終活の中での終末期医療の選択の部分などは特に、「延命は希望しない」とは意思表示しつつも、追加の文言として「最終的に条件や状況においては、家族にすべて任せるよ」ということまでも希望であると意思表示しておくとか、「自分の希望通りにならなくてもかまわない、私はいいよ」というところまでも含めて、家族や関係者と話す機会があればよいのではないかと思います。「介護」に関することについても同様でしょう。条件状況で想定外のことばかりです。いくら自宅で介護をしたい、されたいという話であっても、そのときの家族の状況ということがあります。それによっては双方の希望通りにならないことも多くあるように思います。「終活」で意向をハッキリと決めすぎることが、逆にそれをやむにやまれず実現できなかった遺族を悩ませる、後悔の念を生じさせるということもあるでしょう。

自分が残すものよりも、自分が残してもらったもの、相続してもらった事柄を振り返る

 終わりに、「終活」とは、家族や遺された者が揉めないように、あるいは迷惑がかからないようにということを最大限考えて取り組まれる方が多いと思います。しかし「終活」において私たちが一番考えたいことは、自分が残すもの、相続するものを考える前に、自分が残してもらったものや自分が相続してもらったものは何だろうかということを振り返るところから始めていただきたいのです。そう考えた時に、仮に自分の親から迷惑をかけられた、親のせいで苦しかったという思いがあったとしても、果たしてその迷惑だったことや苦しみは私の人生にとってなくてもよかったものでしょうか。家族や遺された人たちにとって迷惑がかからないことは本当に良いことなのでしょうか。そのことを、まずは我が身として考える必要があると思います。人生の本当に大切なことに気づいていく、それこそが「終活」の営みといえるのではないでしょうか。

中島 航(なかじま・こう)

九州大谷短期大学福祉学科・仏教学科講師。

1975年生まれ、東京都出身。大谷大学大学院修士課程(真宗学)修了。社会福祉士、介護支援専門員、権利擁護センターぱあとなあ福岡会員、真宗大谷派教師。特別養護老人ホーム、養護老人ホームの主任相談員を経て現職へ。また現在は福祉相談事務所風航舎(ふうこうしゃ)を設立して成年後見人等の活動も行っている。専門分野は、家族支援を中心としたソーシャルワーク、看取り支援、グリーフケア(遺族支援)、高齢者の権利擁護、仏教的視点から考える高齢者福祉など。

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