2020年07月10日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第2回「「お釈迦さまはどんな人だったの?-『生きがい』と仏教」」の抄録③です。
お釈迦さまがなぜ出家したのかを伝える有名なエピソードに「四門出遊」という伝承があります。仏典の中で説かれるお釈迦さまの生涯には、荒唐無稽な話がたくさんあります。それらは、お釈迦さまはいったいどんな人だったのかということを象徴的に表している物語です。この伝承そのものが実は教えなのです。これを通して何が伝えられ、何を確かめようとしてきたのかということが大事なことです。
さて、ある日、シッダールタ太子は東西南北の門を出ます。まず、東の門から出たところで、老人に出会います。するとシッダールタ太子は、従者に聞きます。
「あれは何だ」と。
すると、従者が
「あれは老人です」
と。お釈迦様は、
「老人とは何か」
とさらに聞きます。すると従者は、
「あの者も、あなたと同じように若いときがあって、そしてだんだん老いてきて、あのようになったのです」
「私もあのようになるのか」
「誰でも必ずそうなります」
この出来事で、お釈迦さまは自分が老人になることを初めて知り、それによってふさぎ込んでしまいます。一旦東門から戻った後、後日、今度は南門から出てみたそうです。すると、今度は病人に出会います。
「あれは何だ」
「あれは病に倒れている人です」
「病人とは何か」
「健康な人もまた必ず病になるのです」
「私もそうなるのか」
「誰でも必ずそうなります」と。
また後日、今度は西門を出ると、死人に出会います。「私もああなるのか」と聞きます。もちろん、従者は「あなたも必ずそうなります」と答えます。
さらに最後に北門を出ます。すると、今度は沙門、つまり出家修行者に出会います。今でもインドには修行者の方がたくさんいます。そういう修行者がそこにいたのです。
老病死を見て、お釈迦さまは最後に修行者を見て、私はこの道を行くと言って出家していったのです。お釈迦さまは、国を捨てて、皇太子であることを捨てて、そして親も自分の妻や子どもも捨てて出家をされます。
もともと、お釈迦さまは、大切に、大切に育てられました。父シュッドーダナ王はある預言者に、「生まれてくる子は世界の王となるか、もしくは出家して仏陀となるでしょう」と言われていました。ですから、シュッドーダナ王は、出家しないように育てようとして、城には老い、病し、死んでいく者を見ないように育てた。それでシッダールタ太子は老者、病者、死者を知らずして育ったとも伝承されています。
では何故、老病死を見て出家したのでしょうか。後々のお釈迦さまの回想はこんなことを言っています。
わたし自身、老いるもの・病むもの・死ぬものであり、老いること・病むこと・死ぬことを避けられぬ身でありながら、他人の老い・病い・死を見て、あざけったり厭ったりすべきであろうか。これは正しいことではない、と。わたしはこのように考えて、青春に対する空しい誇りと健康に対する空しい誇りと生存に対する空しい誇りとをすべて棄てた。 『阿含経』
つまり、老病死を見たときに、お釈迦さまの中で「私はまだまだ若い者である、あんな年寄りではないのだ。私はまだまだ健康である、あんな病持ちではないのだ。私はまだまだ生きている。あのように死んだ者ではない。何もできなくなった存在ではないのだ」と思ったのかも知れません。それは人間の正直な気持ちでしょう。しかしそう思っていたことは正しいことではないと気づかれたのです。誰もかれもが老い、病い、死んでいくものである。にもかかわらず、老いていく者を厭う。これは、正しいことではないという認識です。お釈迦さまは続いてこのようにも言っています。
何ゆえにわたしは、おのれ自身、生まれ老い病み死ぬ性質のものであり、悲しみありけがれある性質のものでありながら、同様に生まれ老い病み死ぬ性質のものを求め、同様に悲しみありけがれある性質のものを求めているのか。 『阿含経』
この言葉は、私たちがいったい何を求めているのかという問題に関わっています。老いと病と死に対して私たちが求めているのは、若さであり、健康であり、生存です。その若さを求めるこころは、老いを嫌うこころですが、言い換えれば、「若さ」という必ず老いていくものを求めているということです。「健康」という、必ず病んでいくものを求めているということです。「生存」という名の、必ず死んでいくものを求めているということです。
この実態をお釈迦さまは覚ったのです。私たちは生きていますが、言い替えれば私たちは死んでいっているのです。生まれた瞬間から、死に向かって歩む存在なのです。ある一定の瞬間から死んでいくと思い込んでいますが、事実は死んでいっている。これが仏教的な見方でしょう。
私たちには老い、病、死を嫌うこころがあります。苦しいですから当然の思いです。しかし、その老病死は私自身なのです。それらを嫌うということは、私自身を嫌っているということです。私たちは、老病死を嫌い、私自身を嫌っている存在だということです。自分自身に不満を抱いているということです。「あのときの方がよかった」というのは、現在の自分が嫌だという不満なのです。
≫ぼくのかけら に続く
≪ゴータマ・シッダールタとは へ戻る
鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授
1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。
写真/児玉成一