2020年07月10日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第2回「「お釈迦さまはどんな人だったの?-『生きがい』と仏教」」の抄録④です。
『ぼくを探しに』(倉橋由美子訳、講談社)というシェル・シルヴァスタインの有名な絵本があります。主人公は丸いのですが口の部分だけが三角に開いているのです。そこで主人公は「僕は何かが足りない」と思っています。それで「僕は楽しくない」と言って、この口のところに合う自分のかけらを探して、本当の自分になろうとする物語です。
そして、自分の欠けた部分に合うかけらを探しに出かけます。山を越え、海を越え、ずっと探しに行き、色々なかけらを当ててみるのです。大き過ぎて合わないことや、小さ過ぎて合わないことがあったり、と。そうして探しながら、その途中ではみみずさんと話をしたり、花の香りを嗅いだり、ちょうちょさんと遊びながら、楽しく歌を歌いながら自分のかけらを探しにいきます。そして、最後の最後に自分にぴったり合うかけらを見つけます。喜んだのですが、あることに気付くのです。ぴったり合ったらどうなってしまったか。
ぼくは歌いだす
「ぼぐのがげらをみづげだぞ
ぼぐのがげらをみづげだぞ
ラムラムラム
ロムロムロム
みづげだぞ。」
うまく歌うことができなくなってしまいました。それまでは「ぼくのかけらを見つけるぞ」と歌いながら、遊んだり、話したりしていましたが、合うものを見つけた途端にちょうちょさんとも遊べなくなって、みみずさんとも話せなくなってしまった。
絵本ではその後、この主人公はこのかけらをそっと置いて、元の開いた口の姿で「ぼくのかけらを見つけるぞ」と、きれいな声で歌いながら、また自分を探しにいきます。
私たちの人生というものに重ね合わせると、何かが不満足だと思い、そこに合うものを一生懸命求めようとしている。その最も根本的な問題が「老病死」です。動くこと、見ること、話すこと、考えること、色々なできることを「老」と「病」は奪っていくものだと思っています。何もできない者になってしまう、と。そして最後に生きることそのものも奪うのが「死」だと思っているのではないでしょうか。老病死は、私たちにとって一部分が欠けていく現象なのでしょう。だからそこに合うものを一生懸命求めていく。一生懸命ピースを探しにいく。しかし、私たちの姿は、いつでもそのときの私自身でしかない。その私自身にどう頷くのかということが、人生の課題であり、お釈迦さまの出家の課題であったということです。
鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授
1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。
写真/児玉成一