2016年06月15日
Category 法話
「たい・たら・ぶりは往生のさまたげになる」
日曜講演
田中 顕昭氏(長崎県・西教寺住職)
浄土真宗の信仰の篤い石川県の能登半島の方では「たい・たら・ぶりは往生のさまたげになる」と言われるそうです。これは何でしょうかね。「鯛」とか「鱈」 とか「鰤」を食べてたら往生のさまたげになるという訳ではありません。違うんですよ。「たい」というのは私たちから未来に望むこと。ああしたい、こうした い、ああなりたい、こうなりたいの「たい」です。「たら」というのは過去です。あの時こうだったら、あの時こうでなかったら、と私たちはそればっかりなん ですね。未来には多くを望み、過去を悔やむ。そして「ぶり」。判ったふりをして、つもりになって生活をしている。では、往生とは何ですか。今を生きるとい うことなんです。今をいただくということなんです。今をいただいた時、はじめて未来がきまるんです。今をいただかない人間に往生もへったくれもありませ ん。今をいただくんです。この身このまんまをいただくんです。歩けない体をいただくんです。そういうことですよね。そうするとね、例えベッドひとつが私の 生活になろうとも、ベッドひとつから、畳一枚から計り知れないものを教えられてきます。ベッドひとつが聞法道場になるんです。
人生に意味があるとか、ないとか、そういうものはどうでもいい。人生を充実しなくてはとか、人生に意味を持たせようとかというのはね、今を受け取ってない 証拠だと思うのですよ。受け取ってないから、意味があるかとか充実してるとか、してないとか何かの尺度で計ってしまう。どこにありますか。充実…