2017年10月06日
Category 法話
法話「棺桶の中の娘に父親は叫んだ」
2017年9月23日
講師:三島多聞 氏(岐阜県高山市・真蓮寺住職)
仏縁をいただきまして秋彼岸の永代経法要にお話しをさせていただきます。彼岸に当たり亡き人を縁に仏法に遇(あ)わさせていただく法要です。本日の講題のお話しをする前に「死」と「亡」という違いをはっきりさせておきたいと思います。私たちは「死」と「亡」を同じ事柄に使っていますが、意味上は違うのです。漢字は文字の合成で種々の意味を現わします。「木」という字と「日」(太陽)を合成して「東」という漢字ができています。木の間から太陽が昇ってくるさまを表しています。
「死」という文字も合成された文字です。「歹」と「匕」の合体です。「歹」の意味は遺体、白骨という意味で亡き人のことです。「匕」は「人」の変形で腰を曲げ前で手を合わせている姿です。生きている人ということです。
ですから「死」は亡き人と生きている人が合体し、「“出遇っている姿”」のことです。亡き人とどう出遇うかという大切な意味を問うてくる文字であります。亡くなった人だけでは「死」になりませんし、生きている人だけでも「死」になりません。亡き人に出遇ってこその「死」です。どう出遇うか。その出遇いを仏法、南無阿弥陀仏によって真実の出遇いをさせてもらうことが法要の大切なポイントです。
「死」によって真実に出遇うあり方について、実例をあげましょう。
阪神淡路大震災から9年目の新聞記事です。19歳の青年のコメントが出ていました。10歳の時、地震に遭ったのでしょう。毎年震災のあった1月17日、震源地の長田区にキャンドルと花束を持ってお参りしている。すならち「死」を成…