2020年08月28日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第3回「お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―」の抄録⑤です。
私たちは、「こう進んだらこうなっていく、こうなってこうなったらいいな」と想像しながら、人生設計を立てて生きています。それは地図のようなものではないかと思います。しかし、本当の地図は、その土地を実際に測量し確かめて作られていますが、私たちの人生設計は、実際のものはその時にならないとわからない訳ですからさまざまなモデルを参照しながら、自分で思い描いた想像に過ぎません。
そのような人生の地図は、知らない街の地図を描いているようなものです。駅を出たら、ここにスーパーがあって、まっすぐ進んだら、この角に電信柱があって、そこを左に曲がったら目的地だというように。でも、実際に駅を降りても思い描いたようなスーパーなどない訳です。知らない街だから当たり前です。でも私たちが人生の中でぶつかる戸惑いは、そのような想像で描いた地図を進んでいって、何で地図の通りでないんだと怒っているようなものです。このようなことをしているのが私たちの姿です。
そのように人生の予想をし、地図を持って安心を得ようとしていますが、それでも私たちは未来への不安を離れることはないでしょう。そこには確定した未来もないし、したがって絶対的な安心ということもないからです。人が占いやお守り、祈願を求めるというのは、なにがしらそこに未来の保証を期待するからです。
その期待は、私たちにとって切実なものに違いありません。しかし仏教は、そういう未来の不安に対して保証を与えるものではないのです。私の希望する未来への道筋を提供するのが仏教ではありません。では何のために仏教はあるのでしょう。
仏教の言葉ではないのですが、ここで私は次のような言葉を想起します。
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、…中略…生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。…中略…生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
『夜と霧 新版』池田香代子訳 みすず書房
V.E.フランクルの言葉です。フランクルは、アウシュヴィッツから生還した方ですが、こんな人生を生きる意味があるのかと私たちは人生に対して問いを投げ掛けるが、その問いは方向を180度転換することが必要だと言います。人生の方が、私たちに対して期待をしている。どう生きるのか人生から問われているのだと言います。つまり、人生をどのようなものとして生きるのかと問われているのは私の方なのだと言うのです。
私たちが生きる意味を考えようとする時、大抵は仕事や趣味など色んなことを行うこと、あるいは家族の幸せや物質的な豊かさを手に入れるということを意識します。人生の時間は、それらのことを通して自分の満足を実現するための時間なのであり、私たちは、人生に対していかに自分の喜びを与えてくれるかを期待しているのです。だって私たちは自我が中心で自分の肉体も、自分の人生も、自分の思い通りになって欲しいからです。しかしそのために、してきたことができなくなったり、家族を失ったり、豊かな未来のために何もすることができないという時、生きてきた人生の内実、そしてこれから生きていく意味を失ってしまいます。その時、自分に喜びを与えてくれない人生は、生きる価値のないものになってしまう。自分の満足に寄与するはずの身体や人生の時間がそのようなものでなくなってしまって、意味が見出せなくなる訳です。でもそのような私たちの思いを超えて、人生の方が常にいかに生きられるかを私たちに期待しているのだとフランクルは教えています。
仏教も、自己中心的な、我執のあり方を転じることを教え、あなたは、どのようなものとして人生を生きるのかということを問いかけていると思います。
鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授
1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。
写真/児玉成一