覚りの智慧に照らされて生きていく|大人の寺子屋コラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年08月28日

Category 法話

覚りの智慧に照らされて生きていく

お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―⑥

お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?

知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。

この抄録は第3回「お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―」の抄録⑥です。

 親鸞聖人はこんな御和讃を作っておられます。和讃というのは、和語で歌った讃歌です。

 

解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな

有無をはなるとのべたまう 平等覚に帰命せよ

『浄土和讃』(『真宗聖典』479頁)

 

一切の煩悩を滅する覚りの徳から放たれた光は、際もなくどこまでもひろがります。その光に触れた者は、誰もが、有る・無いという思いにとらわれるあり方を離れると釈尊はお説きになっています。あらゆる存在の平等を覚られた阿弥陀仏をたのみとしなさい

 

 煩悩を消滅する光をいただいた者は、とらわれを離れて、平等の覚りをよりどころとしていくのだということです。仏の覚りは、平等という内容でも言い表されます。自分中心に、自分の都合によって人や物を選り分けてしまう私たちですが、すべての存在は平等であるということです。先ほど仏の覚りを縁起、無我とお話ししましたが、そのような覚りの境地において仏が見ているのは、あらゆるものが平等であるという世界です。そこに仏の覚りの大切な側面があります。

 そして、よりどころとするというのは、それに従うということです。親鸞聖人は、仏の覚りとは平等の覚りであるのだから、この平等への覚りをよりどころとして従い、歩んでいきなさいということを、この御和讃でおっしゃっているのです

 私たちはどのように人生を生きるようとするのか。確かに、人生には喜びも、楽しみもたくさんあります。その喜び、楽しみを最大限に、苦しいことを最小限にというのが私たちの望みでしょう。その喜楽を頼りとし、よりどころとして生きていくというのが私たちかもしれません。ですが、そうすると常に苦しいことを避け、恐れ、不安を抱えていくことになる他ないでしょう。

 それに対して親鸞聖人は、平等の覚りをよりどころとして生きよ、それがあなたの本当の願いとすることだと教えるのです。その平等の覚りの中には、他者や物質だけでなく、老い、病し、死していく自分自身の姿もあります。そして思い通りでない人生の姿もあります。それは厭うべき姿ではなく、平等な存在なのです。煩悩の中でそれが見えないだけです。でも老病死を厭い嫌うというその煩悩の底に、自分自身を生きたいという深い願いがあることを見逃してはいけません。自分自身を生きたいけれども、都合に合わない自分は生きたくないという、その都合に合わないという自己中心的なあり方が問題なのであり、その思いの底に息づいている、その身を生きようとする意欲が私たちの本当の願いです。その本当の願いに気づくことが重要なのです。そして、そこにあらゆる存在を平等に見る覚りの智慧が、私たちのよりどころとして必要となるのです。人生におけるさまざまな不安は、私の都合に合う未来かどうかということが大きな問題です。その未来の自分を選り分けない智慧が、仏教の教えるところなのです。

 そこで一つ問題があります。仏はこの平等の覚りの智慧を得た存在ですが、親鸞聖人は死ぬまで煩悩を離れることはないと教えています。それなら不安はなくならないではないかと思いますが、その通りです。私たちはどこまでも未来に不安を抱えていく存在です。親鸞聖人が教えているのは、そのような不安がなくなる道ではなく、その不安の中を生きていく道です。南無阿弥陀仏という念仏は、煩悩の中に起こってきて、その不安を煩悩と教え、覚りの智慧に出遇わせてくださるのです。つまり都合の合わない自分の未来を恐れていることに気づき、そこに、どのような自分も自分であり、自分の人生であり、大切なものであることを気づかせていただくのです。いつでも煩悩に沈んでしまう私たちですが、そこにいつでも覚りの智慧をもたらす。だから私たちは変わることないけれども、不安の中を生きていくことができるのです。

 私たちがお釈迦さまや仏弟子のように修行しなければいけないのであれば、私たちには困難であります。しかし、仏の覚りの智慧に照らされて歩んでいくということはできる。お念仏に照らしていただきながら、教えられ続けていくのです。親鸞聖人はそうお教えくださっているのだと思います。

≪お釈迦さまは何を覚ったの?―「不安」と仏教―⑤へ戻る

 

 

鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授

1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。

 

 

写真/児玉成一

最新記事
関連記事

記事一覧を見る

カテゴリ一覧
タグ一覧
  • twitter
  • Facebook
  • Line
  • はてなブックマーク
  • Pocket