2020年08月04日
Category サンガコラム
あるお寺で目に飛び込んできた言葉があった。「心配はいらんと言う 心配である」。
日めくりカレンダーに記された、その筆文字には、うまく書いてやろうというてらいがなく、まっすぐなすがすがしさがあった。言葉はどこか愛くるしく、うまいことを言ってやろうというあざとさから遠く離れていた。それが小山貞子さんの言葉との初対面であった。
ご息女の金丸悦子さんにお聞きするところによると、日めくり帖に記されたのは、小山さんの耳にのこり、または胸のうちに生じてきた言葉だという。今回とりあげるのは、そのひとつである。
不思議な法語だが、「じぶんって何なんだろうか」と考えた小山さんに湧きあがってきた言葉とのこと。お孫さんが「おばあちゃん、ふらふらだって?」と大笑いするのを喜んでおられたとお聞きした。
確かに「ふらふら」な生活である。「ぎょろぎょろ」というのもなるほど、おもしろいものはないかとつねに獲物を探している。些細なことであっても、心が「くよくよ」といじける時だってある。「ひょいひょい」という軽さは、図々しさでもあろう。以上は私の実情だが、問題は「うっとりうっとり」である。
「うっとり」ほれぼれとするような経験がないわけではない。しかし、私たちのつまらぬ「うっとり」はおよそ長続きしない。ブッダはみずからのすがたを拝む弟子に、この腐っていくからだを見てどうすると説いた。「うっとり」とは、表面的なものに恍惚としている私たちの迷妄そのものだ。だが同時に、ほんとうのうつくしさをまのあたりにした感動をもいうのだろう。
こんな不思議な話もある。何人もの人間を殺したアングリマーラはブッダをも殺そうとして追いかける。しかしなぜか、どうしても追いつくことができない。ついに「止まれ」と言う彼にブッダは答える。「私は止まっている。あなたが止まりなさい」。ただでさえ「ふらふら」な私たちはなかなか踏み留まることができない。堂々巡りにも似た日々のなかで、私たちを支えてくれる真実を探し求めている。
音楽家の寺尾紗穂はこう記している。「夜の闇が深ければ深いほど、人間の瞳に映る星の数は増えていく」(『彗星の孤独』、スタンド・ブックス、2 0 1 8 年、40頁)。私たちの「ぎょろぎょろ」とした眼に映るのは、苦悩に満ちた世界である。その暗がりを前にしてはどうしても「くよくよ」とせざるを得ない。「ひょいひょい」と前に進みたくはない。それでも、闇のなかに灯される光を、きっと見出し得ると信じたい。
私たちの未来の瞳には、ほんとうの光が灯されているだろうか。私たちは、ほんとうの「うっとり」に出会う道中をいま生きている。
東 真行(あずま しんぎょう)福岡県・常行寺