2020年03月13日

Category 法話

苦の原因は「煩悩」にある

お坊さんの話を聞こう

 「四聖諦(ししょうたい)」という、お釈迦さまが説かれた教えがあります。「人生は苦であると正しく知りなさい」という内容です。「諦」というのは、「あきらめる」ではなく「あきらかにみる」ということです。「あきらかにみる」とは、「ごまかさずに正しく知る」ということです。そして、「苦の原因は煩悩(ぼんのう)にある」と説かれます。

 煩悩には「三毒の煩悩」というのがあります。「貪欲(とんよく)・瞋恚(しんい)・愚痴(ぐち)」といいます。あらゆる生きものにも「欲」はあります。人間の欲というと、食欲、睡眠欲、性欲がありますね。例えば、ほとんどの動物は満腹になったらそれ以上食べようとはしませんが、人間は満腹になっても、次に出されたメニューが高級食材だったら無理してでも食べる。言い訳もちゃんと用意しています。「別腹があって…」と。これで十分ですと言わないのです。食べ物に限らず、もっと欲しい、レベルの高いものがほしい、たくさんほしい、いくら持っていてもまだほしい…。または、人に分け与えたくないという思いも生じます。そういった限りのない欲のことを「貪欲」といいます。

 「瞋恚」というのは、自分は正しいというところを譲らないため「不具合はすべて他者にある」というところに立つことで、争いが起こったり、うまく物事が運ばないときに、怒り憎しみ妬み嫉みになっていくということですね。それを「瞋恚」といいます。

 「愚痴」の「愚」は「気が付かない」という意味です。つまり「無自覚」です。仏教の目標や目的は「覚」です。この「覚」が実現したら悟りですが、この反対の言葉が「愚」です。気が付いてない、本当のことを分かっていない。決して知能が低いという意味ではありません。仏教に知能は関係ない。親鸞が自らを「愚禿」と名のったのも、自分のことを知能が低いと謙遜して言っているわけではありません。

 

 周利槃特(しゅりはんどく)というお釈迦さまのお弟子さんがいらっしゃいました。チューラパンダカともいわれる方です。自分の名前を覚えることもできなかったお弟子さんの一人で、茗荷(みょうが)という食べ物の由来ともいわれています。周利槃特のお墓のところに生えてきたことから茗荷といわれるようになったそうです。漢字のとおり、自分の名前を忘れてしまうから、自分の名前を書いたものをぶら下げている、という由来だそうです。戒律を覚えることもできない、また、お釈迦さまの教えを聞いてもすぐに忘れる。彼のお兄さんはマハーパンダカといってとても賢い人だった。そのためお兄さんからすると、「あいつ(弟)のせいで…」みたいな空気感があるわけですね。ですから「お前なんかもうやめちゃえ」、「お釈迦さまの弟子にふさわしくない」と言われてしまう。そんな周利槃特をお釈迦さまが見つけて「どうしたんだ」と聞くと、周利槃特は「私のような自分の名前も覚えることができないような者はお釈迦さまの弟子としてふさわしくないのでしょうか」と質問します。そうするとお釈迦さまは、布切れ一枚と箒(ほうき)を与えて、「『垢を拭き、塵を払え』と、ひたすらにその一つだけを言いながら掃除をしなさい」と伝えました。するとある時、周利槃特は「あぁ、垢と塵というのは自分の心のなかの煩悩のことだったんだ」と気づき、悟りを開くことができた。そのようなお話です。

 ですから、愚かということは知能が低いということではありません。しかしながら、こういう姿は客観的にみると滑稽(こっけい)な姿なのかもしれません。皆さんもそう思うでしょう。「あの人、あれで恥ずかしくないんやろか」と思ってしまう。無自覚であるということを「愚」といいます。

 

 それから「愚痴」の「痴」。本当は「癡」という文字なんですが、今はこの「痴」も当てられます。「信じることができない」という意味です。「知」性が病んでいるということでしょう。悪知恵にしか使わない、ともいえるでしょう。

どこで「平等」が成り立つのか

 仏教が示す「煩悩」は他にもいくつかありますが、結局は人間が「ともに」協力しあって生きていくということを阻害するわけです。「平等」ということが言われますが、実は努力して、譲り合って平等になろうと思っても絶対になれないのです。意図しないうちに、新しい差別がどんどん生まれてきてしまうのではないでしょうか。

 そうではなく「平等」とは、「弱い者同士に立つ」ということが本当の「平等」なのではないでしょうか。「できること」と「できないこと」をあわせ持っている者同士、弱さを抱えている者同士、悩みを抱えている者同士。あるいは、病気になる(なる可能性のある)者同士、年を取る者同士、死ぬ者同士…。
 そこに立って初めて「平等」は成り立つのです。「みんなが豊かになって平等になろう」というのは、絶対に無理なのです。なぜかといえば、それは絶対に「格差社会」となってしまうからです。あるいは「できる」というところで頑張ると、優生思想にもなっていきます。できるかできないかで物事を判断するようになる。そして、できない人間には存在の意味がないと行きついてしまう。

 「ほんとう」のことが分からない者同士である、ということが大切なことではないでしょうか。親鸞という人は「愚」という名のりをもってそこに立とうとした人なのです。つまり、「分かっていない私」という立場です。しかしこの立場は、時の権力者からしたら一番都合が悪いことでもあります。「お殿様も私も煩悩を抱えた『凡夫』同士やないか」というところに立つわけなので、権力構造が相対化されてしまいますからね。法然や親鸞が弾圧されるのは、ある意味では止むを得ないことだったのかもしれません。

「つながり」に安心できる道

 私たちが悩んだり困ったりするのも、結局は人間関係の中でのことなんですね。お釈迦さまの悟りの内容は「縁起(えんぎ)の法」といいます。あらゆることを「関係」として考えなさいということです。ありとあらゆることは、皆、私が存在するために必要なことなんだということですね。「世界中が私を成り立たせている」。そして、「私も誰かや何かを支えてるんだ」ということですね。

 そういう意味ではお互いに存在の意味がある者同士です。しかも、一人ひとりが「異なる」わけです。『仏説阿弥陀経(ぶっせつあみだきょう)』というお経(経典)の中には、次のような言葉が説かれます。「青色青光(しょうしきしょうこう) 黄色黄光(おうしきおうこう) 赤色赤光(しゃくしきしゃっこう) 白色白光(びゃくしきびゃっこう)」という一節です。「青」という字は古い時代の中国で使われたら「緑」色のことです。つまり、緑色のものは緑色に輝くということです。黄色のものは黄色に輝き、赤色のものは赤色に輝く。つまりはそれぞれが違い(異なり)ながら安心して生きていくことができるということです。金子みすゞさんの詩でいえば、「みんなちがってみんないい」ということでしょう。

 

 このお経で説かれる「浄土」という世界は、差異(ちがい)を認め合いながら調和していく世界のことです。そしてこの「青色青光~」は、浄土にある蓮池の蓮がこんな状態なんですよ、ということが説かれているのです。また、浄土の世界には、「共命之鳥(※)」という鳥が住んでいるとも説かれています。この鳥が表すように、「いのちは皆つながっているんだ」ということですね。全く顔も名前も知らない、利害のない人であっても、こんな気の毒な殺されかたをしたというニュースに触れただけで私たちの心は辛くなります。それは「いのちがつながっている」からなのでしょう。その「つながりに安心ができる」という道が仏教なんだと思います。

 

 現代は恐ろしいほどの健康ブームです。しかし一方で、「じいちゃんばあちゃん、健康になってそれからどうするの?」と孫に聞かれたら、「そこまで考えてなかった」みたいなことはありませんか? 他にも「お金は儲かったけど本当に幸せになったの?」とか、「どうして土をコンクリートに変えたの?」などもそうでしょう。

 「つながり」や「安心」というところに立ってみると、「進歩」という裏側には、実は「喪失」が隠れているのかもしれないですね。「手に入れることで失うこと」もあるんだと思います。「良いことをしよう」と言いますが、その「良いこと」は誰にとっての「いいこと」なのか。またそれは、ほんとうにいいことなのか。「勝つってことは負けた人をつくるってことだよね」といったような、そういう問いかけがあってもいいのではないか。もっと素朴なところで、今まで当然と思っていたことが問いかえされていくような、さらに言うならば「どうして答えを出さないといけないの?」、「もうちょっと考え続けてもいいんじゃないの?」みたいなことがあってもいいのではないかと思っています。

 

※「共命之鳥(ぐみょうしちょう)」

経典に説かれる鳥の名前。一つの胴体に二つの頭をもつ。仏典によれば、二つの頭同士は仲が悪く、ある時に一方の頭がもう一方を傷つけようと毒花を食した結果、体が一つであるため双方ともに命を落としてしまったという物語。大切な相手やいがみ合っている相手であっても、様々な人たちとのつながりの中で今の自分が存在しているということを説く。

自他と「ともに」認め合う

 私たちは、当然と思っているようなことを「問いかえす」ことをしなくなってしまった。物事を問わなくなったし、考えなくなったし、誰かと話をしなくなった時代だと思うのです。『コミュニケーション不全』という書籍が書店に並んだりしていますが、ライトなコミュニケーション、安心できるコミュニケーションがされにくくなった世の中ですね。

 私たちには「本音」と「建前」があります。「本音」が大切だということを言ったりしますが、実は「本音」というのは、大概は「私の都合のところからの発想」でしかないんです。本来、「本音」のもっと奥には「本願」と言っていいかはわかりませんが、自分でも気が付いていない「本当の願い」というものがあるんだと思うんです。

 「ライバルに勝ちたい」とか「あいつをやっつけたい」とか「ギャフンといわせたい」というのが「本音」です。けれども、その奥に「本当は彼とも仲良く生きていきたい」という何かがある。自分でも気がついていない、もっと「奥底の願い」、「根本的な願い」といいましょうか。そういうものがあるのではないのかなと思うのです。「みんな仲良くいたしましょう」というのが「建前」で、「本音」は「自分さえよかったらいいんや」とこう言ってしまいがちですが、もっと奥には「みんなと仲良くしたい」という、「根本的な願い」が実はあるのではないでしょうか。

 そういうところに「もうちょっと素直になれたらいいのにな」と思うこともあります。そして、「完璧な者同士じゃないんだ」というところに立って自他と「ともに」認め合っていく。そのようなことが、「浄土」という世界から教えてもらうことではないのかなと、そんな風に思います。

 

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真城義麿(ましろ・よしまろ)

1953年、愛媛県生まれ。大谷大学大学院文学研究科修士課程修了(仏教学専攻)。
東本願寺の関係学校である大谷中学・高等学校(京都)教諭を経て、1997年から2011年3月まで同校校長を務める。現在、愛媛県・真宗大谷派善照寺住職、真宗大谷学園専務理事、日本私学教育研究所客員研究員。
主な著書に『危機にある子供たち』『真の人間教育を求めて』(法蔵館発行)、『成人したあなたへ』『仏教のぶっ』(東本願寺出版発行)、『今、教育の現場では』(真宗大谷派難波別院発行)など多数。

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