2020年07月10日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第2回「「お釈迦さまはどんな人だったの?-『生きがい』と仏教」」の抄録①です。
今日のテーマは「お釈迦さまはどんな人だったの?―『生きがい』と仏教」」です。「生きがい」は私たちにとって問題でありますが、仏教、真宗が問題にしていることでもあります。今回はこのことをお釈迦さまの出家について確かめながら考えていきます。
「生きがい」は、「生きていることの意義」を感じられるということですね。あるいは、生きる値打ちがある、生きてゆく上での張り合いということでも表されます。では、私たち現代人の「生きがい」に関する意識はどうなっているのでしょう。「生きがいをもち、心にハリや安らぎのある生活を送っている」と感じているでしょうか。
NHKが、「日本人の意識」という調査を5年ごとに行っていますが、前回は2013年に行いました。そこでは何パーセント人が、「生きがい」があると思っていらっしゃるか。「はい」と答え方は76.2%です。結構高い数字だと感じると思います。実は、この数字には事情があるのですね。
2008年から2013年の間は、所得・収入以外の項目は変わらないか、それほど増えていないのに、生活に満足している人が増えているのです。つまり、生活の向上感や将来への期待を持てない中で、生活に満足している人が増えているそうです。そして、その理由を、
「失われた20年」と言われる長い間、将来への期待がもてない状態が続き、希望のない将来に比べれば今の生活は「まあまあ」であり、満足してもよいのではと考えたのではないだろうか。
(『現代日本人の意識構造[第8版]』、NHK放送分か研究所編、2015年、NHK出版・180頁)
と調査では分析されています。
特にリーマン・ショック以降の経済の落ち込みで、先行きが見えなくなっていますし、高度経済成長期やバブル期のように、こうすればこうなるという道筋が見えなくなりました。昔は、真面目に勉強して、真面目に働いていけば幸せがあると思えた。けれども、経済の先行きが危うくなっていく中で、人生の確実な生き方、人生モデルが持てなくなってしまっています。そうした中で将来への不安があるからこそ現在に満足しておこうという意識となっているということです。
ですので、現代の「生きがいがある」という答えは、言い換えると、希望がないから今生活ができていることに満足すべきと考えているということですね。しかし、この状態で「私たちは本当に生きがいがあるのか」というと、疑問符が付くと思います。
皆さんは、「本当に自分自身はこの人生でよかったのだろうか」と思うことはないでしょうか。つまり、私たちは「今、ここで、生きていられている」ということだけで満足するのではなくて、自分が「どう生きてきたのか」、そして「これからどのように生き、そこにどのような意味があるのか」という、「生きていく意味」を問う存在です。だから今、満足だと言えたとしても、それまでの人生、そしてこれからのどうなるのかわからない人生全体の「生きがい」を問いたい、「生きがいがある」ということを求めているのが、私たちです。だから「今の生活が「まあまあ」」と満足すべきと考えても、それは自分の人生全体の「生きがい」に対する自分の答えにならず、どこまでも満足できないものを抱えていくのではないかと思います。
私たちは、そのようにいつも生きる意味を問うのですけれども、どのようにその意味を考えようとするのかというと、先ほどの「希望のない将来に比べれば」、あるいは「まあまあ」とあるように、私たちはそこで相対的な価値判断をするのですね。ここに大事な問題があります。
私たちの満足は、いつも相対的なものです。経済的状況だけでなく、体や病気の問題、家族関係や人間関係も、相対的に満足度が上下します。周りの人や過去の自分、あるいは未来の理想の自分と比較して、この状態であれば満足できる、満足できないという判断をするのです。
たとえば今はSNSで、こんなおいしいレストランに行ってきたと投稿して「私は充実しています」ということを表現しますね。けれども、別の人がもっといいレストランに行った投稿を見れば、途端に恥ずかしくなってしまうでしょう。あるいは病気も人と比べて自分の方がましだと思うこともあるでしょうし、家族や人間関係でもあるでしょう。満足といっても、比較をして、この状態に比べるなら満足と言っているのであって、別なものを見たら自分を惨めに思うこともでてしまう。それが本当の幸せなのでしょうか。
またこの満足の状態は難しい問題を含んでしまいます。他者と比べた中で自分を満足しようとすれば、自分よりも辛い状況の人よりは自分の方がましだと判断することになります。これが、現代の貧困や格差の問題では、非常に困難な状況を生んでいます。ある研究では、弱者救済に対して一番反対するのは中間層だそうです。物質や金銭を弱者に支援すると、中間層の受益率が低くなってしまうので、それが中間層の不満となるそうです。自分より弱者が利益を得ると、自分の方がましだという判断が揺らぎ、かえって不遇観が増してしまうということでしょう。そうすると弱者救済が困難になってしまいます。
そういう問題を、社会的に解決することも大事ではありますが、今回どのような「生きがい」を問題にするのかを仏教の視点、特にお釈迦さまがどんな人だったのかということを通して考えてみたいと思います。
鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授
1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。