この世に生まれ、この世に生きる | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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法話

この世に生まれ、この世に生きる

この世に生まれ、この世に生きる

 日曜礼拝
「この世に生まれ、この世に生きる」
梁河 文昌 氏(茨城県・正藏寺住職)

梁河 文昌氏

教えを聞くということ

「日曜礼拝」という場所は一週間の中で週に一度、親鸞聖人やお釈迦様の教えに身を据えてもう一度自分を見直すという時間だと思います。私自身そうなのですが、世の中に流され、毎日を忙しい忙しいと言いながら生きているのが現実です。自分にとって何が大切なのか、何が本当のことなのかということを考えさせないようになっています。そうすると、なかなか教えに身を据えて自分を見直すということができないのです。人生はやり直しはききません。やり直しがきかないのが人生です。しかし、見直すことはできるのです。だからこそ、一度立ち止り、「教え」に身を据えて、自分を見直していくことは大切なことです。こういう場がないと考えさせられるということがないのだと思います。

もっと言えば自分で時間を作り、ここに身を運んでいるわけですね。それも条件が整ったからここに来られているのです。天気がよければ紅葉でもいったほうがいいかなと思いますし、誰か身内がお亡くなりになったとすれば来れないのです。そこに身を運ぶということは、私の意識を越えた何かがあるのではないでしょうか。私を押し出してくる「何か」があります。ここで話を聞いたからと言って得するわけでも、お金が儲かるわけでもありません。しかし、私を突き動かしているものがあるのです。

浄土真宗は「聞く」ということを中心にしてきました。「聞く」宗教です。まず、ご一緒に「正信偈」を唱和しましたが、親鸞聖人のお言葉を自分で声に出すと同時に、自ら「聞く」ということです。一般の宗教は「行」が中心です。皆さんが創造されるように滝に打たれたり、座禅を組んだり、精神修行などが「行」です。それは一般の人には無理があります。なぜなら特別な環境や状況が整わなければできません。「行ずる」には、一心不乱にその行に取り組まなければなりません。

梁河氏2

ご存知の通り、親鸞聖人は9歳の時に得度なされてからは、比叡山で20年間「行」をしておりました。しかし、「果たしてその『行』に何の意味があるのか」と疑問をもたれた。京の街を見れば人が道端でバタバタ倒れ、死にゆく人もいる。当時「この世」を目の当たりにし、果たして自分がやっていることが、世の中の人々の救いになるのだろうか、特別な人だけが特別な救いにあずかるようなものに何の意味があるだろうかということを疑問に思ったのです。そして、親鸞聖人はそういう形で「行」がこわれ比叡の山をおり、法然上人のもとを尋ねられ、ひたすら聞いた。浄土真宗は「聞く」ことを中心にして来た。そういうことから言っても真宗の御門徒はひたすら「聞いてきた」歴史があります。そして、自分全体を言い当ててくれるようなものと出遇い、開かれるのは「聞く」というところにある。

お亡くなりになりました宮城顗先生は教えを聞くといいうことでこうおっしゃられています。

 聞法とは言葉につかまれる体験であると思います。自分の今の生活に間に合う言葉を捜すことではなくて、逆にその言葉において、生活が照らされてくる。そういう自分の生活を常に照らしだしてくる言葉に出会い、そういう言葉を常に生活の中にもっておる。繰り返し、繰り返し、その言葉のもとに返り、言葉に照らされることにおいて、自分の生活を受け止めなおしていく。

この世に生まれたということ

今日のテーマは「この世に生まれ、この世に生きる」ということです。この時代を選んで生まれようと思って生まれてきた人はいないのです。誰もそろそろ生まれようかなと思って生まれてきた人はいません。縁があってこの世に生まれ、このように育っているわけです。そしていつ死ぬということも決められないのです。偶然、父と母が出会って生まれてきた。けれども生まれたと同時に死ぬということは決まっているのです。それは必然です。

生と死は別のことではなく、ひとつのことですとお釈迦様が「生死一如」という言葉で教えられています。「あなたは生死の身ですよ」という事が、真実の言葉として言い当てられるわけです。「この人生は一度しかないのだよ。そういういのちを賜っているのですよ」ということを、おそらくお釈迦様は私たちに伝えたかったのだと思います。やり直しはきかないのですよと。それと、生かされている「いのち」だということが、生活の中で受け止められているかどうかという問題がでてきます。自分の命を自分で支えられる人はいないのです。生きているのではなくて、「生かされている」のだということです。頭ではわかっていると思いますが問題は、忙しいと振り回されてそのことを忘れてしまって実感することが出来ない。

この講堂にはお仏飯(ご飯)が供えられています。これは勤行が終わった後にお供えし午後にお下げし、いただきます。私たち真宗門徒はこれを365日繰り返します。これはやはり命をつなぐものを忘れないためだと思います。お米一粒にもいのちがあり、支えられているのだということです。食べるということは「いのち」をいただくということなのです。だから「いただきます」と言うのです。色々なものに支えられています。

しかし現代では自分一人で生きているかのように大きく勘違いをしてしまっています。自分の努力によって自分は生きているのだと。自分の努力を誇り、競い合っています。これだけの実績を残した、これだけやってきたのだと結果だけしか見ていない。そして「いのち」を数値化し、私物化し、「いのち」がなんだかわからなくなった。「いのちをいただきます」という感覚は生活の中にありますでしょうか。ただ美味しいか、まずいか。値段が高いか安いか。高かったんだからもったいないとさえ言ってしまう。本来の意味は、物の体が無いから「物体無い」ということです。田圃を耕し苗を植えて、雨が降って太陽が照って、ようやく稲ができて、稲かりをして、精米をして、ご飯を研いで炊いて口に入った。まさしく私の命をつないでくれるのですね。それを捨ててしまったからもったいないのです。どれほどの自然のおかげと、人の手と時間がかかっているか。

私もずっとボランティアで被災地に行っていますけど、ものすごい量のおにぎりとかパンが送られてきます。ありがいたいです。だけど、食べるほうも、毎日おにぎりとパンだと飽きてしまう。そして賞味期限切れを迎えてしまう。残念な話でが、それは捨てなければなりません。一方では食べられなくて、飢えて亡くなる人たちがいるわけです。そういう矛盾を抱えているのが「この世」なのです。現に苦しみ、悲しみ、さまざまな問題をかかえた「この世」です。この世の問題と関係なく、真宗の教えを聞くということはありません。

お釈迦様のある有名なエピソードがあります。

お釈迦様は釈迦族という王様の跡継ぎとしてお生まれになりました。少年時代のゴータマはある祭りにでかけました。そこでお百姓さんが土地を耕しいろいろな種をまくという姿をじっと見ておられたんです。するとお百姓さんの耕した大地の中から、ふと虫が一匹でてきた。それをどこからともなく、一羽の鳥が飛んできて、その虫をあっという間につまんでいって、またどこかにとんで行ってしまった。そういう光景をご覧になったゴータマ少年はひどく悲しい思いに閉ざされ、森に入られて、閻浮樹(えんぶじゅ)という木の陰にお座りになって、深い瞑想に入られました。そこでゴータマ少年から次のような言葉がからもれでました。

「哀れ。生き物は互いに食み合う。」

虫とか鳥とか獣ということだけではなくて、私たち人間も含め食べ合わなければ生きていけないということです。そういうエピソードです。これはお亡くなりになられた信国淳先生方がよくこのエピソードについてお話されていたそうです。

 

生き物は、互いに食み合うものだということ。つまり、自分を守り、自分をたてていくためには、傍らにある他の存在をまったく無視して、他の存在を利用したり、他の存在を犠牲にしたりしていく事実を少年は目の前ではっきりと見てとられたわけなのです。そして、それを非常に悲しまれて、『哀れ。生き物は互いに食み合うもの。』という嘆きの言葉を発せられたわけなのです。(『いのちみないらるべし』)

要するに生まれたということは、自らのために他の存在を利用し何かを犠牲にして生かされているということが事実だということです。

犠牲ということで問題にしたいのは、福島第一原発でおきている問題です。「ソケットの向うに被爆労働者見えるか」という言葉を聞いたことがありますか。今、福島で事実を覆い隠されていることが沢山あります。しかし、豊かさの犠牲にしていたことをまったく気づかず生きてきたということも一方ではあります。それを知らされたのは、福島第一原発の事故であります。

都内に住むほとんどの人は、東京電力の電力を使いたい放題にし、どれだけ危険なものを使ってきたかを知られないように、見せないようにしてきたということです。そして、私たちも知ろうともせず豊かさを満喫してきました。それを象徴的に言えば「コンセントの向こうに被爆労働者が見えるか」という言葉になるのでしょう。

例えば、この近日中に子供の甲状腺ガンまたは、疑いをもった子供たちが100人を超えたと聞いております。この比率は事故前、通常の40倍だそうです。そういう事実は覆い隠されてしまっています。放射能が高い所に子供を置いておったら甲状腺ガンにかかってしまいます。子供は成長段階で細胞が傷つけられやすい。けれども成長段階ですから、傷つけられた細胞は元に戻ります。夏休みや冬休みに放射能の少ない北海道とか九州にある一定期間行って元に細胞を戻す。現在はそういう保養という活動です。けれども、そういうことは国が全面的に支援をするべきだと思いますが、誰が対策をするのか、誰が責任をとるのか。国が悪い、自民党が悪いということだけで済ませてしまうのか。自分は電気を使いたい放題してきて、そのために、苦しんでいる人がいる。このことをどう受け止めるかという問題だと思います。

真宗は共に救われるという教えです。苦しんでいる人がいるのに、自分だけ救われたという救いではありません。これが親鸞聖人が歩まれた道だと私は受け止めています。お前に何ができるかという問題ではありません。このような問題を無視して生きるということではないと思います。

「この世に生まれ、この世に生きる」というのは、自分だけが満足して人生を終えていくということなのでしょうか。私たちが本当に願っていることは、やはり「共に生きたい」「この世を共に生きたい」ということではないでしょうか。「願生浄土」という言葉があります。「浄土」とは一人ひとりが輝き、全体として調和している世界です。お荘厳でかざられている仏花は一つひとつがきれいでしょう。それは一つひとつが、その色を輝かせているからきれいなのです。自分は自分なりに輝いている。一人ひとりが輝き、皆が個性豊かに、調和のとれた世界に生まれたいという願いをもって生きてほしい。それは私たちの根底に流れている、意識を超えた「いのちの願い」と言っていいと思います。

ではどうしたらお互いが認め合いながら、共に生きる関係がたもてるのでしょうか。それにはまず、共に生きることを妨げているものがあります。それは私の中にある好き、嫌い、善い、悪い、損得で人を判断している分別です。そういうものさしを私が持っていたということが問われないと、「共に生きる」ということが成り立たない。自分の物差しが照らされ、自分全体を言い当てられてくるものと出遇い開かれていく、それは「聞く」というところにある。

「共に生きよ」という願いに生き、自分を言い当てる言葉を「聞く」のが私たちの真宗門徒なのだということを今日は確認したかったことでございます。

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