社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(5) | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2019年05月21日

Category 親鸞フォーラム

社会×共育×仏教―育つ力、育む力―(5)

パネリスト 齋藤 孝 氏 小島 慶子 氏 一楽 真 氏 コーディネータ 本明 義樹 氏

2017年3 月19日、丸ビルホール&コンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。本抄録は「社会× 共育× 仏教-育つ力、育む力―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。

学びとは「祝祭」である

一楽 煩悩を断ち切らないと、人間は誘惑とか憎しみから解放されないということで、もともと煩悩を断ち切ることが仏教の基本だったわけですね。しかし、これを一つの形として立ててしまうと、今度は、それができない者、漏れていく者が出てくる。親鸞という人の悩みは、そこだったと思います。親鸞自身は、ある意味で、山の上で修行できる側の人間だったわけですけれども、山にのぼることも許されない人もいるし、修行できない体を持っている人がいる。そういう人はどうなるんだというときに、先ほどから出ている弱い者の側、威張らなくてもいい、みんな仲間なんだというところに立ち戻ったのが親鸞という人だと思います。だから、煩悩を断ち切れというのは大事な話ですが、それがまた一つの理想論となってしまうとき、仏教が人を排除する論理になってしまうのです。

 今日のお話から言えば、教育というのは達成目標という目印を必ず立てなければいけませんよね。でも、それを立てた途端に、必ず漏れる人が出るわけで、そこをどう本当にケアできるか、受け止めていくかということがないと、結局、教育と言いながら、競争社会を激化させていくだけではないでしょうか。

 私は新しい指導要領のことは詳しくはありませんが、お国から出てくるのは、前のが駄目だったから今度はと言って、いつもいいものが出てくるのです。でも必ず漏れる人がいる。だから「べき」では人間は助からないと思うんですよね。その辺に疑問を持ったのが親鸞という人です。よく勘違いされるのは、親鸞は山を下りて結婚もしたじゃないか、だから何…

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