親鸞フォーラム
格差社会×仏教-人間の闇と希望-(1)
2016 年6 月19 日(土)、JPタワーホール&カンファレンススクエア(東京都千代田区)を会場に「親鸞フォーラム―親鸞仏教が開く世界」が開催されました。
本抄録は「格差社会I×仏教-人間の闇と希望―」をテーマに行われたシンポジウムの内容です。
鶴見 第11回目の今回は「格差社会×仏教― 人間の闇と希望―」というテーマで開催させていただきます。格差社会ということは、特に2000年前後から話題になってきましたが、近年では特に社会的なトピックになっているかと思います。考えてみますと、それこそ親鸞の時代や、1億総中流と言われた時代であっても、格差や貧困の問題は変わらずあったわけです。しかし今、あらためて大きな社会問題として挙げられてきているところに、現代の不安、生きづらさということが見え隠れしているように思います。私自身、こうして表面化されてくるまで、この問題にほとんど気づくことが出来ていませんでした。そういった現実を見えなくさせていた、私自身が抱えている存在の闇という問題も、一人の仏教者として考えていかなければならないと感じています。
それでは、最初に浜さんからお願いいたします。
共感性を有する“抱擁社会”
浜 今日は非常に重要なテーマを頂いたと感じております。まず始めに格差社会は、どこに問題があるのかということを、私にとって身近で関心の強い三つの世界から考えてみたいと思います。一つ目は『聖書』の世界です。二つ目はロック音楽の世界。そして三つ目は教科書の世界。この三つの世界において、格差ということがどのような扱われ方をされているのかということを、皆さんと共有させていただきたいと思います。
まず一つ目ですが、『新約聖書』の中に、次のようなお話が出てきます。
一人の大金持ちと一人の貧乏人の話です。ある大金持ちが、自分の大きなお屋敷から毎朝出掛けていくと、必ず屋敷の門前に貧乏人がいる。今風に言えばホームレスの人です。その人は、まさに赤貧洗うがごとくという感じで、体調もすごく崩していて、体中に腫れ物ができて悲惨な状態です。そんな人が門の前で物乞いをしている。お金持ちは、その人を横目に見ながら通り過ぎていく。もしかしたら「自分は、ああでなくてよかった」と思っているのかもしれません。そんな事が何日も続きました。

あるとき、金持ちも貧乏人も、両方とも死んでしまうわけですが、貧乏人は天国に行き、そして金持ちは地獄に落ちてしまいます。その地獄に落ちた金持ちが、その貧乏人が神様の懐に抱かれて天国にいるのを見つけて、神さまに「あの貧乏人が指を水に浸して、その指で私の唇の渇きを癒やすようにしてください」と言う。しかし神様は「それはできない」と。「おまえと私たちの間には、決して乗り越えることのできない深い谷ができてしまったのだから、それは駄目だ」と金持ちは言われてしまうのです。
この話を読んでいて私がいつも思うのが、この金持ちは、別に貧乏人に意地悪をしていたわけではないのです。金持ちのせいで、その人が貧乏人になってしまったわけでもない。ただ見ながら通り過ぎただけなのですが、それでも貧乏人は天国に行き、金持ちは地獄に落ち、越えがたい溝ができた。そこを非常に印象深く受け止めたのです。そこから何を読み取るかというのは、最後に申し上げたいと思いますが、それが『聖書』の話であります。
二番目のロック音楽の話ですが、私が好きな古くからあるロックソングで、エルビス・プレスリーなどもカバーしている『俺の靴で歩いてみなよ、1マイル(Walk a mile in my shoes )』という題の歌があります。要するに、貧民窟に住んでいる若者が、全然自分と境遇の違う若者に対して、「俺の靴で歩いてみなよ、1マイル」と。どんな気持ちがするか、それをトライすることなしに、私たちはわかり合うことはできないよと、そういう趣旨の歌なのです。非常に切々と語りかけてくる歌です。しかし私はこの歌を聞く度に、この曲名では少し違うと思います。本当に言うべきことは「あんたの靴で歩いてみよう、1マイル」。そういう思いが実は必要なのではないかということを、その歌を聴くたびに思います。
人のために泣くことができる
最後に教科書の世界ですが、世界初の経済学の教科書という位置づけにあるのが、アダム・スミス(1723〜1790)という人が書いた『国富論』という書物です。1776年に出版されて、この本が刊行されたことで経済学というものが初めて世に出ました。そういう意味で、アダム・スミスは経済学の生みの親だと言われています。そのアダム・スミスが、経済活動を営む人について、このように言っています。「経済活動の主体、経済活動の主役となる人々とは、共感性を有する人々である」。共感性を有する人々が営むのが経済活動であることを大前提として、経済事象を分析するということを宣言しています。
では、この「共感性を有する」とはどういうことか。彼は「人のために泣くことができることである」と言っています。人の痛みがわかる、人の痛みを自分の痛みのように感じ取って、その人の痛みに思いをはせて共感の涙を流す。そういう感受性を持っている人たちが営むのが経済活動だと言っています。
アダム・スミスとか『国富論』というと、いわゆる新自由主義の教科書のように思われがちです。弱肉強食、淘汰の論理が貫徹される市場に全てを任せておけば、それが一番合理的であると、そういうイメージで考えられてしまいがちですが、実はアダム・スミスという人の発想は全然そういうものではないし、『国富論』という書物も、それこそ格差が開くのはあたり前だとかいうような発想で書かれている本ではないのです。人の痛みのわかる人々の営みとしての経済活動を、しっかり自分は分析していくのだと彼は言っているわけです。
『聖書』にある、金持ちと貧乏人のたとえ話。ロックソングの中で語られている、境遇の違う者同士がどうすればわかり合えるのかという語りかけ。そして、共感性の論理、いわば「もらい泣きの論理」です。この三つを並べて、そこで言われていることは何なのかと思いますと、結局のところ格差社会というものの最大の問題は、格差社会であることだということではないかということです。要するに、格差社会化が進むことを放置するということが、格差社会であることの最大の問題であるということです。人のために泣ける人。「あんたの靴で歩いてみよう、1マイル」と言える人。目の前にいる貧乏人を、そのまま放置し通り過ぎていくことをしない。そういう発想があれば、格差社会というものは出現しないのだと思います。
逆に言えば、格差社会が定着していくということは、人が人のために泣けなくなっている、人が人の痛みをわからなくなっている、人が人の境遇に対して無関心で、その前を通り過ぎる状況になってしまっているということです。これはものすごく恐ろしいことです。
今日のフォーラムの副題が「人間の闇と希望」ということですが、本当に人間の魂が闇に陥っている状況であると思います。人間が人間でなくなりつつある。格差社会化が進むということは、人間が非人間化していくプロセスが、どんどん進んでいくということを示しているのかもしれません。いま日本人の6人に1人が貧困者という位置づけにあると言われています。6人に1人の子どもがお腹いっぱいにご飯を食べられないという状況がある。それは、この日本において人間の魂の闇が広がっていることを意味しているのだと思います。この格差社会にどうストップをかけることができるのかと、つくづく思っている次第です。
最後にひと言付け加えますと、その格差社会を脱していくためには、格差社会と逆の社会とはどのような社会なのかということを、しっかり考えておかなければいけないと思います。そこで気をつけなければならないのは、格差社会の反対は、決して均一社会ではないということです。言葉の理屈としてはそういうイメージもあるわけですが、均一社会というのは、これもまた、とても怖い闇の社会だと思います。同じように考えて、同じようにしか行動しない人間ばかりになってしまっている社会ほど怖いものはないと思いますね。それは人間が思考停止状態に陥っていることを意味しています。自分と境遇の違う人がいないという社会では、共感性が失われていく。私たちが格差社会と戦うというときに均一化を求めるという発想になってしまうのは、ものすごく危険なことだと思います。
では、格差社会と正反対の社会とはどういう社会でしょうか。私は、それは抱擁社会ではないかと思います。ハグする社会です。私は包摂性が大事だということを言い続けてきたのですが、包摂では不十分かもしれないなと、この頃は思っています。包摂では「入れ
てあげますよ」という感じがある。英語で言えばinclusive です。exclusiveの反対で、排除しないで入れてあげますよというのは、少し上から見ている。これでは「あんたの靴で歩いてみよう、1マイル」にはならないのではないかと思います。ですので、お互いに抱きあう、相異なるものたちが抱きあう、ハグしあう社会、それを私たちは目指していくべきではないかと思います。
浜矩子 (はま・のりこ)
経済学者
1952年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。三菱総合研究所入社、同社初代英国駐在員事務所長兼駐在エコノミストとしてロンドン勤務。その後、同社経済調査部長、政策経済研究センター主席研究員を経て、2002年より同志社大学大学院ビジネス研究科教授。専門はマクロ経済分析、国際経済。主な著書に『グローバル恐慌』(岩波新書)、『老楽国家論』(新潮社)、『国民なき経済成長脱・アホノミクスのすすめ』角川新書)など多数。