2023年07月01日
Category サンガコラム
今春のWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)では、侍ジャパンが世界一に輝いた。選手たちの、少年のような懸命さ。トップレベルの技。チームへの献身。それらが合わさり、ゲーム自体が見せた図らざる盛り上がりを、今も鮮明に思い出す。
それにしても野球がこんなに面白いスポーツだったとは!
侍ジャパンの全試合をテレビで見ながら改めて感じたのは、やや唐突ながら、野球はつくづく「手のスポーツ」だということ。投げるのも、打つのも、捕球、タッチするのも、あるいは指示し、サインを出すのも、ほかならぬ手である。走ることさえ、手がなくては不自由する。
そんなことを思ったのも、あのヌートバー選手のペッパーミル・パフォーマンスが日本中で話題になったからだ。「さあ、(粉がミルからあふれ出るように)途切れることなく攻撃を続けようぜ」という話題のパフォーマンスも、やはり両の拳(手)を互いに摺り合わせるものだった。
人類が二足歩行を獲得して以来、移動の役目から解放された手は、新たに人間の文化を促す任を得た。火を熾し、道具を作り、もの、家、墓を作り、社会、国家を作ってきた。一言でいうなら「欲望の充足」(よりよき生の実現)であり、それを手が象徴した。
グローブやミットをはめ、手の形を思い切り拡大強調する野球が、欲望充足社会だった19世紀アメリカで花開いたのも偶然ではあるまい。ただし昨今は、これ以上、手を野放図に拡大させてはならないと読むべきだろう。宗教において、円環を閉じ力が外に向かわないことを示す合掌や、その合掌をゆるく縛める念珠によって手が象徴されるように。
稲垣 真澄(フリージャーナリスト)