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法話

一人(いちにん)の成就

一人(いちにん)の成就

「一人(いちにん)の成就」

講師:齊藤研 氏 (新潟県・正楽寺)
日曜礼拝
2015年11月15日

齊藤 研 氏

 「一人の成就」という講題でお話しさせていただきます。「一人」の文字は普通には「ひとり」と読みますので「いちにん」と読むのは耳慣れない読み方だと思います。それを「いちにん」と読ませたのは何故か。そして、その「一人」が「成就」するとはどういうことか。この点についてお話させていただきたいと思います。

 

生死流転

 仏教では地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六種の迷いの生存状態が示されています。これを「六道」と言います。その迷いのあり方から超え、離れるということを仏教は課題にしてきました。
六道にはそれぞれに固有の特徴がありますが、先ず「地獄」の特徴は何でしょうか。現在も言葉では地獄絵図とか、借金地獄などと使われますが、その地獄は実は地下八階建てです。例えば地下一階は「等活地獄」です。そこでは、鉄のツメをつけた人々がブラブラと徘徊しています。それで、他の人に会うといきなり取っ組み合いの喧嘩を始めます。持っている鉄のツメで相手を掴み裂きますので、お互いにボロボロになってしまう。そして最後には細切れになって死んでしまいます。すると地獄の獄卒が杖を地面にゴンゴンと打ちつける。そうすると細切れになって死んだ者が、たちまちに生き返ってしまう。せっかく痛みや苦しみから逃れられたのに、無理やり生き返えさせられて、また鉄のツメをもって歩かせられる。これが「等活地獄」です。これは苦しみが際限なく続くことを意味していると思います。
地下二階は「黒縄地獄」です。「黒縄」とは大工道具の中で直線を引くために使われる墨壺の糸を想像していただくといいと思います。その糸が鉄の糸で、しかも真っ赤に燃えるほど熱せられています。この熱い鉄の糸を、人間の柔らかい裸の体にバチンと当て引く。当たった部分はジュッと焦げ爛れて、赤黒い線がつきます。その焼け焦げた線に沿って、熱せられたノコギリでギコギコと切られる。これが「黒縄地獄」です。一方的に決めつけられて、断定的に評価されレッテルを貼られる、様々な外からの評価に切り刻まれて苦しむことを意味しているのではないかと思います。
地獄は地下に降りれば降りるほど苦しみの度合いが増しますが、この下にまだまだ六階層もあるのです。こういう地獄の描写がお経や論書に説かれているのです。
六道のその他の特徴として「餓鬼」は尽きることのない欲望です。「畜生」は鎖で繋がれて、痛みでもって行動を制限され、自由がなく飼われている状態です。「修羅」というのは阿修羅のことで、闘争が好きで常に戦っています。「天」は快楽です。地に足が着いていない状態です。必ず落ちる時が来ます。
それでは「人」の特徴は何でしょうか。源信僧都の『往生要集』には「不浄、苦、無常」であると説かれています。私はさらに現代の情報過剰の時代には「比較」による苦しみという特徴も付け加えてよいのだろうと思います。

 

「人」とは何か

 しかしそのような特徴を持っているけれども、「人」として存在している私自身であるということは希なことです。「得難く移り易きは其れ人身なり。(…中略…)是を以て、法皇牟尼は大海の針、妙高の線を仮りて、人身の得難きを喩況す」とは、比叡山を開いた最澄の言葉です。人の身を受けることは本当に希であることを釈尊は喩えをもってお示し下さいました。
そしてまさにその「人」とは何であるかと仏教では問われているのだと思います。

仏になるために、まず第一番に、あらゆるものを人間に生れさせよう。人間に生れたならば、今度は仏法を教えて、そうして仏教を享受せしめて迷いを断たしめて、その次の生に、成仏せしめよう。浄土に生れしめて、仏にならしめよう。仏の本願はこういうように二段構えになっておる。二段構えの本願であるということを、われわれは四十八願を読んで知ることができる。

これは曽我量深先生の言葉です。阿弥陀仏の本願は二段構えであるということを仰いました。弥陀の本願とは人間をいきなり仏にさせようという誓いではなく、先ず人間に生まれさせる。それから次に仏に成らせようというのが本願のこころだというのです。

 しかしそうしますと、先ず人間に生まれさせるという、その人間に生まれさせる以前が何であったのかが気になります。ここでいう人間に生まれる以前とは、オギャーと泣いて赤ん坊として生まれてきたということの前を指すのでしょうか。
私たちは生まれた時から疑うことなく当たり前のこととして人間であると思っています。しかし獣に育てられれば、獣として生きていることになるのです。そうするとそれは人間の形をとって生まれていても、人間と成っているかどうかは別の問題だということにはならないでしょうか。
とすれば生物の種としては人として生まれても、その中身は一体どのような生き方をしているのでしょうかということが問題なのだと思います。つまり人の形をして生まれていながら、内実は地獄・餓鬼・畜生・修羅・天という生き方をしているのではないですかと問われているのだということです。
我々は鉄のツメで人を死ぬまで切り刻むことがなくとも、「あの人はどうせ何々だから」と自分本意の考えで相手を切り刻んでいないでしょうか。そして、「もっともっと、まだ足りない」といって欲望追求を当然とした「餓鬼」社会の一員になっていないでしょうか。評価で動くことを気にしたり、金銭が行動を制限したり、見えない鎖で畜生のように繋がれ飼われていないでしょうか。修羅のように相手を打ち負かすことを喜びとしてはいないでしょうか。快楽追求のあまり大地に足がついていない「天」の状況になっていないでしょうか。

斎藤氏1

聞法によって人となる

親鸞聖人は「凡夫」ということを正しくご自身のことであるとして、次の様に仰って下さいました。
凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。(『一念多念文意』)
凡夫というのは、僅かでも事があれば、たちまち煩悩が溢れこぼれ出す、煩悩噴出待機状態を生きているということです。しかもその怒り、腹立ち、他人と比較して勝った負けたと浮かれたり嫉む心は、命尽きるその時まで止まりませんし、消えませんし、絶えることがありません。この凡夫の中身こそが地獄、餓鬼、畜生、修羅、天の生き方ではないでしょうか。
日本の文芸作品や絵画、落語など様々な文化の中には六道の話や描写が深く浸透しています。ですから地獄や餓鬼や畜生や修羅や天の姿を絵画の中で見たことがあったり、空想の物語としては聞いたことがあるかもしれません。しかし、この六道の有り方は現在の私自身が映し出されたものであると知っていくことが大切なのではないでしょうか。
まず最初に人間に生まれさせ、それから仏にさせる。二段構えで誓われているのが弥陀の本願だと曽我先生は仰いました。そのおこころをたずねれば、人間に生まれさせるということは、人間の形をしていながら人間たり得ていないということがあるのだということを聞法することによって気付くようにさせていくということなのだと思います。
「人」の特徴は「不浄、苦、無常」でした。私はさらに「聞法」ということもあげたいと思います。人だけが仏教の道理を聞くことが出来るからです。そして我々は聞法を疎かにしているときに、地獄、餓鬼、畜生、修羅、天になっているのです。聞法することにおいて、辛うじて人になれるのです。ここに「人身受け難し今既に受く、仏法聞き難し今既に聞く」との言葉を繰り返し味わいたいと思います。

聞法の生活

 親鸞聖人がいつも仰っておられたお言葉があります。それは、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ (『歎異抄』)
ということでした。なぜ弥陀の本願が発こされたのかを、よくよく考えれば、「私親鸞一人を救うためだったのだなあ」と受け取られました。弥陀の本願の対象は「十方衆生」です。それを「親鸞一人」と受け取られたのです。「皆さん」との呼びかけに対して「私自身が呼ばれている」と受け取った方が親鸞聖人です。凡夫の自覚があればこその当事者感覚だと思います。弥陀の本願は正しく自分にかけられているという当事者の感覚が「一人」の自覚です。
その「一人」が「成就」するとはどういうことでしょうか。「成就」という言葉は、成就し続けるという現在進行形の意味で捉えなくてはなりません。ですからすでに成就してしまった、成し遂げてしまったということではありません。例えば、「学業成就」となれば、勉強し学校に入り、その学びの本質を体得し、その学びを基礎として社会に出て生きて行かなくてはなりません。学校に合格して終わりということではないはずです。「恋愛成就」ならば、やがて結婚し、家庭を持ち、その家庭生活を維持し続けていかなくてはならないでしょう。
ですから「一人の成就」ということは、弥陀の本願の当事者であることをうなづいていく凡夫の歩みということです。弥陀の本願の話を聞き続ける歩みをしていくということであり、お念仏の人生を歩んでいくということです。 「一人の成就」とは「聞法の生活」のことであるということをお話しさせていただきました。

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