お寺の掲示板Vol.25|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年12月04日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.25

本当のことがわからないと
本当でないものを本当にする

安田 理深

 新型コロナ感染症の拡大以降、大好きな温泉に行けていません。我が家では名湯の入浴剤を活用しています。私のお気に入りは白濁色。ささやかな気分転換です。

 さて「お寺の掲示板の言葉からなぜ温泉の話を?」と思われるかもしれませんが、一つ共通点があるのです。それは「濁り」ということです。白濁色の湯船で、自分の腕を見てみると、水面ギリギリのところで、腕がうっすら見えたり、見えなかったりします。当たり前のことですが、それは水が濁っているからですね。この「見えそうで見えない」あるいは「わかりそうでわからない」状態のことを、仏教では「濁」の語を用いて「五濁」や「濁悪」などと言います。

 しかし「わかりそうでわからない」のは、気持ちがスッキリしません。濁りが自然に透明に変わるまで、あるいは物事が明瞭に見えるまで、考え、耐え、忍び、待つことができればいいのですが……。なかなか待てません。特に現代という超高速の時代を生きる私たちにとっては、待つことは損をしたような気持ちにすらなります。コンビニやスーパーのレジに並べば、誰しもが感じるところではないでしょうか。

 では、待てない私たちは「見えそうで見えない」「わかりそうでわからない」濁りと遭遇した時、どう対処するのでしょうか。「見えそう」「わかりそう」とは、全く手がかりがないわけではありません。ですから、うっすら見えているものを既知(経験している)のものに置き換え、知っていることにするのです。「よく見えないけど、きっと前に見たアレだな」といった具合に。まさに本当でないものを本当にするのでしょう。これは「知ったかぶり」とはややニュアンスが異なります。知ったかぶりは、知らない私であることを認知していますが、既知に置き換えることは知らない私でありません。どこまでも知っている私です。

 こんなことを繰り返していくと、本当のことをわかろうとする心が失われていくのではないでしょうか。そして、自分だけの世界に、自分の「わかる」ことだけの都合の良い世界に閉じこもってしまうのではないかと思います。だから仏教では「濁悪」と濁りが悪として説明されるのです。また、善導(613〜681)という僧侶は「自分の悪い部分は善いことに変え、他者の善いことは素直に認められない」在り方として、濁りの中に生きる人間の姿を語っています。いつでも正しいのは自分、間違っているのは相手。本当でないものを本当にするとき、本当のことは一体、どこにあるのでしょうか。

 白濁色の我が家の名湯に浸かりながら、立ち止まり考え続けることの大切さと困難さを感じつつ、本当の温泉を夢想しています。

 

市野 智行(いちの ともゆき)

愛知県・道誠寺
同朋大学 専任講師

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