お寺の掲示板Vol.18|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2021年10月05日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.18

自己とは何ぞや これ人世の根本的問題なり

清沢 満之

 14歳のある日、中学校の担任の先生から「ああいう子とは、あなたのような子は、付き合わない方がいい」と言われ、突然それまでの世界がガラガラと崩れ、学校へ行く気力が無くなってしまいました。

 「ああいう子」というのは、私が当時仲良くしていた友達のことでした。その友達というのは、家の複雑な事情からか、少しグレていて、学校にナイフをいつも持ってくる子でした。そして先生が「あなたのような子」と言ったのは、私の両親が教員だったことや、私が生徒会長だったことを指していたのかも知れません。その時、「あなたみたいな」という、その「看板」を無くしたら「私には、何が残るのか」「私そのものとは何か」が分からなくなり、愕然としたのです。そして、それまで明るかった世界が、一挙に薄暗い灰色の世界に変わってしまい、何を食べても味がしなくなってしまいました。

 最近では、そんな心境のことを「中二病」と、馬鹿にしたように言われたりします。しかし、どれほど周りから「そんなはやり病のような子どもじみた気分は、大人になれば消える」と言われても、全く私の心に響くことはありませんでした。その後の私の人生は、ある意味「虚しい。死にたい」という衝動との格闘でした。と同時に、これが本当の自分だという実感、浅薄な世間的レッテルに依らない、全身に実感できるリアリティーを探して、引きこもったり、宗教を遍歴したり、外国にも飛び出したりしたのです。

 そして、本当に生きる気力も死ぬ気力も無くなって、生きる屍になっていた時、ある方の「そのまま」という声が聞こえてきたのです。耳にではなく、私の心の底に、否、全身に「光の声」となって聞こえてきたのです。生きていること自体、世界の存在自体の意味を探している、言い換えれば、一切に意味付けする「私」こそ闇の正体であることが、光の中で体感されたのです。そして、空や木や人の存在など、世界の一切が厳粛で尊いことが感じられてきたのです。周りから「そんなに深刻になるな、軽く生きた方が楽だ」と言われても、暗闇をごまかせなかったからこそ、光の声が聞こえてきたのです。それは大きな体験であったために、その体験の固執から解かれるには、また長い時を経ねばなりませんでしたが、それは、光を仰いで大地を踏みしめて歩み始める決定的な出来事でした。

 今でも、世界が灰色に感じられてしまう「時」があります。それは、「私」の「頭が上がっている時」です。「頭が上がっている時」とは、周りだけでなく、自分のことも、無意識のうちに評価し断定し、「わかってしまっている」時です。そして「また頭が上がっている」という懺悔が起こる「時」、目の前の出来事が、厳粛に感じられ、いっしょに悲しむことができる感覚が、新しく蘇るのです。

 

 

高柳 正裕(たかやなぎ まさひろ)

愛知県・元同朋大学 非常勤講師

最新記事
関連記事

記事一覧を見る

カテゴリ一覧
タグ一覧
  • twitter
  • Facebook
  • Line
  • はてなブックマーク
  • Pocket