2022年10月05日
Category サンガコラム
近所の運動公園の、桜の大木が倒れた。朝の散歩時にはなんともなかったものが、夕方には遊歩道をふさいでいた。雨こそ降ったものの、格別大風が吹いたわけではなく、幹に洞でもあったのだろう、まあ大往生かと想像された。
翌午前中には造園業者がクレーンを使い、幹は輪切りに、枝は小さく織り畳んで、あっという間に片づけてしまう。径80センチほどの斜めの切り株が残るだけ。手際よさに驚いてしまう。断面を見る限り洞は全くない。幹は十分堅牢だったが、その分、根を深く広くは張りきれず、いわゆる浮いた状態になり、倒木に至ったものと思われる。
根を存分に伸ばせないというのは、至るところ舗装された都会の樹木の宿命である。しかし大地に根差さず、一体どこに根を下ろしたらいいのか。生物は結局は大地を支えに生きてゆくしかない。大地から養いを得、その大地に踏ん張って立つ。
人間の営みでいうなら、大地の実りを素直に戴くのが農業である。人間は大地(アグリ)を耕作(カルチャー)する程度の介添えをする。それと対比的なのが、大地に強引に介入し、有用なもの(金属や石油)を力づくで取り出してくるマイニング(鉱業)だ。
大地への二つの関わり方のうち、現代のわれわれはアグリカルチャーよりもマイニングに傾斜していると思われてならない。農業においてすら、大地の生産力に期待するよりも、積極的に石油や肥料・飼料を投入しリターンを最大化する傾向があると聞く。それはまた、ビットコインを得るためのコンピューター操作をマイニングと呼んだり、ビッグデータから価値ある情報を取り出すことをデータマイニング、テキストマイニングなどと名付けたりする言葉の好みにも現れている。
稲垣真澄(フリージャーナリスト)