サンガコラム
ちょっとした声かけが励みに
東京・中野の区立小学校で、子どもの登下校の見守りを始めて3年目になった。学校の控室で「シルバー人材センター」と書かれた緑色のベストを着て、さらに「通学路児童見守り」のタスキをかけ、混み合う一方通行の道路へ向かう。
当初すぐ気になったのが、握った「横断中」の黄色の旗を水平に出すことだった。「これでは低学年の子どもの顔の高さ。何かの弾みで当たったら危ない」。で、旗は左手で垂直に掲げ、右腕で車に「待って」の合図をしながら頭を下げたり、腕を振って子どもに横断を促したりのやり方にした。
とはいえ、子どもがこちらの誘導どおりに動くとは限らない。下校時は授業からの解放感もあってか、もしも、友だちなどが離れた所から手を振るのを見つければ、周囲に目もくれずに飛び出すことも。「走らない」と大声をあげても興味がある方向へ突進だ。
もっとも小さな子どもの視線では遠くまで見渡すことは難しい。しゃがんで彼らの目の高さで眺めれば分かる。
危ない時はこちらの出番だ。車がやって来る方向を腕で指し、「クルマ」「クルマ」と、運転手に見えるように、子どもに向かって口を大げさに動かす。要は「ここに子どもがいるよ」と気づいてもらうためだ。身振り手振りによる運転手とのコミュニケーションが欠かせない。
見守りで知ったのだが、「おはようございます」「たいへんですね」と声をかけてくれる人が少なくないこと。それも年配者から若い勤め人まで。意外だった。現役のころの自分は通勤電車の不機嫌な空間しか知らない。
道路には幼稚園バスにデイサービスや人工透析の送迎車、訪問診療車にゴミ収集車、新手の英語保育の送迎バス……。杖をついて1分歩いては休み、また歩くといったように、懸命に歩く何人かの高齢者も目にする。 見守りの先に「みんな一緒に生きている」という遠景が浮かぶ。「一緒に生きている」。それを自覚し確かなものにしなければと思う。
井上 憲司(元社会部記者)
学校で「疾風怒濤」という言葉を教わった。妙に「そうか」とうなずいた。友だち同士で習いたてのこの言葉を振り回し、いい気になっていた。十代の終わりごろで、意気軒昂だった。
半世紀以上たって、いきなり疾風怒濤の中に投げ込まれた。一昨年以来、未知の病気がまん延し、世界中が嵐の中を航海している様相になっている。いつ横波に襲われて、生活という船が転覆するか知れない。
若いころの無鉄砲さも影を潜め、世渡りの術も少しはおぼえ、「こんなものか」と自分と折り合いをつけたと思っていた矢先、そのような世間知がまったく間に合わない事態に直面した。毎日毎日が「きょうはどうするか」の連続だった。
理不尽だが、現実だから、みなで知恵を出し合って、世界的規模のこの困難を乗り越えていかなければならない。
昔読んだ柴田翔の『されど われらが日々―』の終章の言葉を思い出す。
時代が違うから違う困難ではあったけれども︑困難があるという点では同じだった。(略)だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだ。
自分でなくてもいい。自分たちの中から明日への希望をもって、あゆみ出す人のいること、その姿がみなの希望になる。
本願寺第8代の蓮如(1415 〜1499)は、宗祖親鸞の命日を「明日」と書いている。戦国乱世のただ中で、死という人生の総括の日を明日への出発と受け止めた感性はすばらしい。