2024年03月01日
Category サンガコラム
安田 理深
私はご縁のある電話相談の窓口で相談員をしている。その電話相談は、人に話せない悩みや苦しみを電話で話してもらうことにより、少しでも心の負担が軽くなれば、との思いから開設された相談窓口である。そこには様々な悩みの電話がかかってくる。
ある方は病気で脳に障害があり、昔の記憶はあるものの、今は短期間の記憶しか保持出来ない。日常生活をしていく中で、きちんとした記憶がないというのはどれほど不安だろうか。また、ある方は心の病気を抱え、自分の現実と客観的な事実との区別がつかない状態で、日々、身体も精神も消耗しながら懸命に生きている。その他にも様々な悩みを訴える電話が数多くかかってくる。
電話をかけてくる方々は、今抱えている悩みや苦しみから、なんとか逃れようとしてもがいている。しかし、電話で自分の状況を話すことで苦しみが少しは軽減されるかもしれないが、本質的な解決にはならないことの方が多い。また、もしその問題が解決しても新たな問題が生じてくる。生きていくということは本当に厄介である。
電話を受けながら感じるのは、自分には電話をかけてくる方々の苦しみを完全に救うこともできないし、当人の苦しみが実感できないという意味では、本当の共感も出来ない。それなのになぜ続けられるのか。改めて考えてみると、私自身、浄土真宗の教えに救われたという思いが心の底にあり、そのことが電話相談を続けさせているのかもしれない。
私が真宗に出会ったのは25年程前、30代半ばだった。その時は、社会的な環境の変化で勤めていた会社の状況も厳しくなり、また二人の幼子を抱え、いろいろなことが一度におしかかり、不安に押し潰されそうだった。そしてこれから先の人生をどう生きて行こうかと悩み苦しんでいた。
そんな時に、父が真宗の僧侶として活動していた縁で、真宗の教えに出会うことができた。会社で競争を勝ち抜き、その先にしか幸せはないと考えていた私にとって、真宗の価値観は衝撃的でさえあった。こんなにも広く深い思想があるのかと驚くと同時に「ああ、これで生きていけるな」と感じさせるものが確かにあったのだ。
仏教の人生観は「苦」だ。苦しみや不安は生きている限りなくなることはない。それを抱えながら生きていくしかないのだ。しかし、その苦悩の人間をそのまま救いとろうとするのが、阿弥陀如来の本願だ。苦しみの中で、自分の信じている価値観を揺さぶり破ってくる確かなものと出会うことができた時、気づかされるものが確かにある。
※個人情報保護のために、相談内容は表現を変更しています。
大谷 一郎(おおたに いちろう)
埼玉県・遊了寺