2020年06月10日
Category サンガコラム
「私を抱いてほしい」
この言葉は末期がんに苦しむお母さんに、家族の方がその苦しんでいる姿を見るに耐えかね、「お母さん欲しいものは何? 」「して欲しいことは何?」とたずねた時、お母さんが答えた言葉です。子どもたちは「メロンが食べたい、背中をさすって欲しい」等々、いろいろな返事を想像していました。どれでも応えるつもりでした。しかしお母さんはたった一言、「抱いてほしい」と答えました。おそらく予想していた言葉でなかったので、一瞬とまどったと思いますが、少しの沈黙のあと、お父さんがベッドにあがり、うしろからギュッと抱きしめられたそうです。
この話を枕経(※)の後、お母さんのご遺体の前で、息子さんからお聞きしました。私は想像しました。後ろからギュッと抱くお父さんのその腕の強さと、抱く腕に伝わるお母さんの体の温かさ。長い人生の、言葉にならない
悲喜の詰まった「時」だったでしょう。抱く強さと抱かれる温かさ。私はしばらくこの「抱いてほしい」という言葉を考え続けました。この言葉は私たち誰もが、生まれてきてからこころの奥底で、ずっと願ってきた言葉ではなかったのかと。気づくことなく、忘れてしまっている願いなのではないかと。
25年前、北海道のお寺に入った私に、お寺の総代さんが「おまえとよくこの世で出会えたなあ、わしとおまえは友だちだからいつでも遊びに来なさい」と、80歳のおじいさんが30半ばの若造に真っ直ぐに語ってくれました。「よくこの世で出会えた」という言葉が、私にとって私のすべてを受け入れる言葉として聞こえました。私たちはさまざまな人生をそれぞれに歩いています。苦悩に憂い、悲しみに心引き裂かれながら、目の前のできごとに右往左往しているのが、私たちの日常生活です。歩いてきた人生を、そして自分自身を、まったく受けとめることなく、受け入れてくれる人や場所を求めて、彷徨っているのが私です。
しかし、もし「私のすべてを〈抱いてほしい〉〈受けとめてほしい〉」と言うことができたなら、強く抱きしめてくれる存在やその温かさを感じとれるなら、かえって私たちは、自分自身を受けとめ、自分自身を抱きしめることができるのではないでしょうか。もう受け入れてもらうことを必要としないくらいに。
※臨終にあたって、故人の家族や親戚みんなでお参りすること。
名畑 格(なばた いたる)/北海道・名願寺