お寺の掲示板Vol.23|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2022年08月03日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.23

たとえ朝咲いて夜散る花であっても
その中には無限のいのちがある

金子 大榮

あれは次女がまだ小学校低学年の頃、夏休みの宿題をしていた時だったろうか。

 「ねえ、おかあさん。なんで勉強せんといけんの? どうせ死ぬとに」

 私は思わず絶句した。よほどこの子は勉強が嫌いなんだと思いつつ、言葉に詰まったのだった。

 「うーん。そやねえ……。そしたら〇〇ちゃん、もうお店にお洋服とか買いに行かんでもええよね。どうせ死ぬんやから」

 「それはイヤ」

 「んじゃ、宿題しよっか」

 たわいもない母子の会話だ。でもそのやり取りに、私は内心〝どきり〞とした。私は答えに詰まり、娘からの問いかけを何とかはぐらかした。数年たって娘にそのことを聞いたら覚えていないと言った。でも私は覚えていたのだった。はぐらかしたことを。うやむやにしたことを。

 ひと言で言ってしまえば、あのとき私は自身の「死生観」なるものを娘から問いかけられたわけである。そういえば私もかつて同じことを思ったことがあったのだ。いずれ死ぬのに、いったいなぜ生きるのかと。死すべきものとして生きることに、どのような意味があるのかと。

 ああめんどくさい。生まれてしまったんだから生きるしかないではないか。四の五の言いなさんなよ……。

 あれから十何年たっただろうか。思えば低学年の娘は、あの時どうしてそんなことを思ったのだろう。何かあったのだろうか。何かを感じていたのだろうか。単に宿題が嫌だからそんなことを言うのだねと、いいかげんに受け流してしまったものの、その問いかけが、遠い昔にまるで忘れ物をしてきたかのように、私の心の片隅に取り残されている。

 どうせ死ぬいのちなのに、なぜ生きるのか。頭で考えるとどうしても解けない問いであり、また永遠のテーマでもある。そのことに仏教は、人は死ぬからこそよく生きよと応えてくれているように思う。

 約50年間、東本願寺には「生まれた意義と生きる喜びを見つけよう」という看板が掲げられていた。その言葉を思い起こすたびに思う。死があるからこそ、生まれた意義、生きる喜びがあるのだと。死というものがない人生に、生きる喜びは見いだせない。迷いがあるからこそ覚るということがあり、悩みがあるからこそ、よく生きたいと思う。

 「たとえ朝咲いて夜散る花であっても」現に今、私は生きてここにいる。それは、流転して流転して、ようやく咲いた淡い花だ。無数の死の上にいただいた愛しくも儚い花だ。不思議としか言いようがない数多の縁を受けて、今私はここに居る。

 

津垣 えり子(つがき えりこ)

福岡県 正應寺

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