お寺の掲示板Vol.17|サンガコラム 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2021年08月05日

Category サンガコラム

お寺の掲示板Vol.17

みんなちがって、みんないい(金子みすゞ)

藤 共生

 私の知人は性的少数者の方と交流する機会があります。その知人は交流の当初、「自分は性的多数者(異性愛者)だから、私には何も語ることがない」と思っていたそうです。ところがある日、一人の性的少数者の方から次のような言葉を掛けられました。

 「自分が『普通の人間だ』と言う人は、自分のことを説明不要な人間だと思っているのかもしれない。でも、この世に説明不要な人間なんているのかな。本当は説明不要な人なんていないんじゃないかな。私は、あなた自身を教えてほしいんだ」

 知人は、私も参加したある報告会で、この経験を発表してくれました。そこで参加者のうちのお一人が、詩人・金子みすゞの代表作「私と小鳥と鈴と」の一節を引用して「みんなちがってみんないい、ですよね」と感想を話しておられました。 

 みんなちがって、みんないい。確かに良い言葉だと思います。しかし、私が抱いたのは違った感想でした。それは、本当のところ「みんなちがって、みんないい」と思えない私がいる。むしろ、みんなと同じでありたいと願い、〝普通〞から逸脱することを恐れる私がいる、ということでした。

 私は今、30代後半で未婚です。福井県内に住んでいると、頑張って早く結婚しなよ、と周囲の方が励ましてくれることがあります。それをありがたいと感じると同時に、「結婚して一人前」という言葉が頭に浮かび、劣等感を覚えます。この言葉によって、自分だけでなく、無意識のうちに周囲の未婚の人をも否定してしまっているのだと思います。

 性的少数者の方が言われた「普通(説明不要)の人間」とは、世間の価値基準における「あるべき姿」のことを指しているのでしょう。性的少数者として悩み苦しんだ人だからこそ、「すべての人が本来、男なら青、女なら赤といった〝普通〞に収まりきらない自分の『色』を持っている。それに気づいてほしい」と訴えていたのだと思いました。

 「普通でありたい、普通から外れるのが怖い」という思いの苦しみ悲しみ。私にとって「みんなちがって、みんないい」とは、そのことを教えてくれる言葉でした。事実は、一人として同じ人はいません。しかし、私の中には「あるべき姿」があり、それによって「普通」と「普通ではない」に分けてしまいます。私は私であり、その人はその人なのに。そんな悲しみを思い起こすとき、「説明不要な人間なんていない。あなた自身を教えてほしい」という叫びが、私に呼びかけられているように思います。

 

藤 共生(ふじ ともお)

福井県・福円寺住職/新聞社「日刊県民福井」記者

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