ほどよい長さとは? | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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ほどよい長さとは?

ほどよい長さとは?
深慮遠望

文庫本なら何ページでも読めるのに、新聞だと一つの記事が100行を越すと息が切れてしまう。どうしてなのか。そんな疑問がくすぶっている。

社会部へ配属され、司法担当を経て遊軍記者になったころ、デスクから「おい、この原稿の120行は長い。削れ」と言われたことがあった。東京の夜間中学を取材し、50歳を過ぎた生徒の人生を描いた。うまく仕上がったつもりなので反抗したが及ばず、削るのは切なかった。

冒頭の疑問はその頃からなので、もう40年以上になろうか。立場が変わって自らがデスクになると、今度は後輩に同じことを言っていた。「長すぎる」と。紙面全体のメリハリ、見栄えを考えるとやむを得なかった。

こうした歳月の間にパソコンやスマートフォンが登場し、媒体による文章の長さの違いをさらに意識させられることになった。スマホのニュースサイトを見ると、新聞社や通信社からの転載に交じってウェブ・ライターによる独自解説もしばしば目にする。

最近も見出しにひかれて開くと、なかなか見せ場がこなくて画面スライドの根気が続かなかった。

もっとも、新聞も近年では長編連載があり、また海外の論客のインタビューを1ページで展開しているが、長文だが、なぜか読めてしまう。新聞だと全体を俯瞰(ふかん)できるので、記事に合わせて「読む心構え」のスイッチが入るのかもしれない。スマホでは長さが一目で分からず、それが作動しない。

ただ、依然として一般記事の「100行の壁」の問題は残る。かつて先輩から80行程度がちょうどいいと教えられた。400字詰め原稿用紙2枚半だ。読み手が「新聞記事とはそういうもの」と慣れ親しんだ長さなのか。

こんな疑問、こだわりは浮世離れだと承知はしているが――。

 

元社会部記者・井上憲司

学校で「疾風怒濤」という言葉を教わった。妙に「そうか」とうなずいた。友だち同士で習いたてのこの言葉を振り回し、いい気になっていた。十代の終わりごろで、意気軒昂だった。
 半世紀以上たって、いきなり疾風怒濤の中に投げ込まれた。一昨年以来、未知の病気がまん延し、世界中が嵐の中を航海している様相になっている。いつ横波に襲われて、生活という船が転覆するか知れない。
 若いころの無鉄砲さも影を潜め、世渡りの術も少しはおぼえ、「こんなものか」と自分と折り合いをつけたと思っていた矢先、そのような世間知がまったく間に合わない事態に直面した。毎日毎日が「きょうはどうするか」の連続だった。
 理不尽だが、現実だから、みなで知恵を出し合って、世界的規模のこの困難を乗り越えていかなければならない。
 昔読んだ柴田翔の『されど われらが日々―』の終章の言葉を思い出す。

時代が違うから違う困難ではあったけれども︑困難があるという点では同じだった。(略)だが、私たちの中にも、時代の困難から抜け出し、新しい生活へ勇敢に進み出そうとした人がいたのだ。

自分でなくてもいい。自分たちの中から明日への希望をもって、あゆみ出す人のいること、その姿がみなの希望になる。
 本願寺第8代の蓮如(1415 〜1499)は、宗祖親鸞の命日を「明日」と書いている。戦国乱世のただ中で、死という人生の総括の日を明日への出発と受け止めた感性はすばらしい。

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