2019年05月24日
Category 終活
法話「明るい終活」
2018年12月16日
講師:竹部俊惠 氏(富山県・妙蓮寺住職)
私の友人に、5年程前に奥さんを亡くされた方がいます。彼は一人で生活を送っていますが、奥様の死ということや、市民病院の院長先生が紹介された「幸せ」「孤独」ということのアンケート結果を通して、これまで彼は生きることだけ考えてきたが、初めて「死ぬことと生きること」の両方を考え始めたように私は感じました。余裕を持て余して、知識的興味が起こったということではなく、すでにわが身に起こったことが、理解や理屈を超えて私に知らせてくることがあると感じたのでしょう。体解(たいげ)です。身が知らせてくるということです。
この「明るい終活」というのも、楽しくという意味ではありません。お経では、「明か」という文字とは別に、はっきりさせるという意味で「諦か」(あきらか)という文字が使われます。つまり、“この先の話”ではなく、「今生きている。そして、死んでいく」ことを諦かにするという意味として捉えることができます。彼には、「死んだ後に苦のない極楽浄土へ行くために今、お念仏するのか」という率直な問いが起こったのです。そして、彼は私にこう語ってくれました。
「浄土真宗の土壌の中にある地と言われながら、また『極楽』という言葉も使っていながらも、多くの高齢者たちが、自らの人間関係を絶っていくこの現実は地獄だ。そして、自分の家族や親族、“私の関係者の幸せだけを願う”から、孤独死が起こるのではないかと何となく思った」と。
以前、石川県松任市(現白山市)に浅田正作という方がおられました。妙好人(みょうこうにん)と呼ばれるような方で、様々な念仏の詩を書いておら…