親鸞フォーラム第5回 | 真宗会館コラム | 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館
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親鸞フォーラム

親鸞フォーラム第5回

親鸞フォーラム第5回

仏教と生命―いのちのゆくえ―
2011年2月6日(日)

パネリスト
養老 孟司 氏(解剖学者・東京大学名誉教授)
福岡 伸一 氏(青山学院大学教授)
織田 顕祐 氏(大谷大学教授)

コーディネーター
木越 康 氏(大谷大学教授)

仏教と生命
―いのちのゆくえ―

木越 仏教者と生命科学者によるシンポジウムということで、人間と生命の問題についてお話しいただきます。初めに、生命とは一体何なのかということについて考えていきたいと思います。

生命は機械ではない、生命は流れだ

福岡 生命とは何か。これは人類始まって以来ずっと問われ続けてきた問題です。今、もし私が生命とは何かと問われたら、それは動的だと答えたいと思います。動的平衡は、遥か昔から語り継がれてきた生命観であり、現代の生物学が再発見した生命観でもあります。

生命、もう一つの言い方として生物という言い方があります。生物を生物として見ると、文字通りモノなのです。しかし、生物が生命を宿しているものだと見ると、生命はモノではなくて現象です。そしてその現象の在り方が絶え間なく動きながら、平衡、バランスを保っているものとしてあるわけです。

GP2遺伝子ノックアウトマウスという、遺伝子操作された特別なネズミです。私が見つけたGP2という遺伝子が何をしているのかということを調べるために、最先端テクノロジーを尽くしてこのマウスはつくり出されました。このマウスの全身の細胞にはGP2の遺伝情報がまったくありません。もしも、このマウスが病気になったり、異常行動を示したら、それはGP2がないから、と考えられるわけです。

私はこのマウスを観察し続けました。ところが、どこにも異常がないのです。一つ部品がないにもかかわらず、どうして生命はまっとうなものとしてあるのか。私は研究上の大きな壁にぶつかりました。けれども、そんなときに、ある人が言った言葉を思い出しました。

「生命は機械ではない、生命は流れだ」これは、今から80年ぐらい前に、ユダヤ人の科学者であるルドルフ・シェーンハイマーという人が言った言葉です。彼はそのことを実験によって明らかにました。簡単にいうと、生きているということは毎日毎日ものを食べ続けなくてはいけないということです。彼はそのことをミクロなレベルで見極めようとしました。

ネズミにしろ、人間にしろ、私たちの体はエンジンのような内燃機関で、ガソリンとしてのエネルギーが必要です。それがゆっくり燃やされて、熱が生まれ、体温になり、化学エネルギーが生まれて代謝や運動に使われる。だから、食べた物は燃やされて、燃えかすは二酸化炭素と水になって体から抜け出ていく。機械論的な生命観ではそういうふうに考えられていました。
シェーンハイマーもそう考えていたのですが、彼が研究を始めた1930年代は、まだそのことを実証する方法がありませんでした。けれども物理学の方面からアイソトープを使うという新しい方法が見つかりました。植物にしろ、動物にしろ、食べ物もミクロなレベルで見ると粒々の集まりで、その集まりを食べると、それがどこに行くか分からなくなる。けれども、食べ物の粒々に印を付けておくことができたら、体の中に入ってどうなるかということを追跡できるわけです。(図2・図3・図4)

福岡  シェーンハイマーは、食べ物がネズミの体の一部に溶け込んでいくプロセスを厳密に追いました。ネズミの体重を実験前と実験の途中で調べましたが、体重は一グラムも増減していませんでした。緑色の食べ物から来る粒子は増えているのに、体重は増えないのは一体どういうことでしょうか。シェーンハイマーはこの実験を次のように解釈しました。

ネズミは食べ物を食べて、それを自分の体の一部にします。そのとき同時に、それまでネズミの体をつくっていたものが代わりに抜け出ていったということなのです。

これは、爪や髪の毛が生え替わるという、新陳代謝として考えますが、実は骨もその中身はすごい勢いで入れ替わっています。脳細胞とか心臓の細胞のように分裂せずに一生そのままある細胞でも細胞の中身は入れ替わっています。そこにあるDNAもつくり替えられています。

同じものがあるように見えるだけで、昨日の私と今日の私は、物質的には違うのですが、どうして私は私と言えるのか。そこに動的平衡というものの秘密があるわけです。

つまり、シェーンハイマーは、私たちの体というのは個体ではなく、時間を少し長く延ばせば流体であり、さらに時間を長く延ばせば、気体のようにガス状のものがゆるくよどんでいるにすぎない。そして絶え間なくほかの生命体の生命を採り入れて、自分から抜け出たものは、また別の生命体に受け渡され、あるときは生命体ではない、鍾乳洞の岩のようなものになったり、海の藻くずのようなものになったりする。けれども、地球全体として物質の総量は、それほど変わらずに、それが実はぐるぐる回っている。その回している一つ一つの力が生命現象だということを彼は明らかにしたのです。

シェーンハイマーの後、DNAの二重らせん構造というものが明らかになって、生命というものが次々と機械論的に解釈されて、DNA的な情報的な見方をすると、生命というのは自己複製する機械だというふうに定義されるようになりました。

しかしそれはあまりにも機械論的に、あるいは情報的に偏った見方にすぎないのです。むしろ生命を動的なものとして見ると違う見方ができるわけです。生命というのは、実体があるように見えますが、単にミクロな分子がよどんでいるだけで、川が流れているにすぎないのです。私はこれを古くて新しい生命観として動的平衡と訳し直しました。生命、あるいは世界を見るときの見方を考え直さなければいけないと思っています。

動的平衡というのは、それを構成する要素は絶え間なく交換、変化しているにもかかわらず、全体としては一定の恒常性が保たれている。生命現象は間違いなく動的平衡だし、環境も地球も動的平衡です。あるいは人間の社会や組織も動的平衡と呼べるかもしれません。このように生命を見ることが大事であると私は思います。

すべての生きものは地球環境を共有しようとしています。けれども、人間だけが占有しようとしている。そういう考え方に、アンチテーゼをもたらすものとして、動的平衡という考え方を私は提唱しているのです。

快と不快によって欲望が起こる

織田 「今、人間を見つめる」ということを考えますと、人間には、福岡先生が研究されている生命の基盤のようなものがあり、その上に、「私」や「人間」ということが成り立っています。生命の面と、それが私として今生きているというその事実の面。普段は生命ということには意識せず、「私」にこだわっています。福岡先生のお話しで言えば、流れを止めて実体化して、言葉で自分というものを立てて執着する。仏教で言えば、自我、我執によって生老病死を立てて、それに苦しむこころの構造に問題があるということです。

福岡先生の動的平衡という考え方は、仏教の縁起という考え方と重なっていると思います。私という事実は、例えば日本語を話して何かを考えたり苦しんだりしながらいるということ自体が、実は、社会とのつながりの中で成り立っていることだと思うのです。

そういう意味で動的平衡というのは、単に生命現象の面だけではなく、私という存在の面にも関係していると思うのです。

いのちの面と自我の面ということで、自我の面というのは、私という言葉を知って私というものを見出し、私というものを成り立たせているということです。

けれども、それは、いのちの面から言えば、生まれる前から、すでにいのちは動いているわけです。私ということに出会うのは、もっとずっと後の方でありましょう。

そのように、いのちにおいて私が成り立っている。言葉や関係によって成り立っている。そういう私が、考えるときには私の面からいのちを考えていくようになる。ここに一つの逆転があると思うのです。

私の面よりは、いのちの面の方が大きくて複雑で途方もないものですから、考えても考えきれないということがあるわけです。ところが私たちはどこかで分からないものに出会うと、大きな恐ろしさや不安を抱く。仏教が生老病死の苦という形で問題提起して、その苦がどこからやってくるのかということを探求してきたのは、そういう一つの流れがあるのではないかと思います。

「仏教と生命いのちのゆくえ」というテーマでありますが、いのちの方は思いを超えてずっと動いているわけです。けれども、社会的な存在としての人間には、何か自分の利害や、都合があるわけです。そういうことが行動の原理になっていると思うのです。

そういう人間の欲望を仏陀は、「快と不快によって欲望が起こる」とおっしゃっています。快適なものを追求して不快なものを排除したい。こういうことが私たちの行動の最も深い原理のところにある。例えば、犬なら犬を人間の都合によって改良してきた歴史もある。科学によって解明されればされるほど、人間の都合によって利用されるときには、とんでもないことになっているのではないか。

そういういのちの問題と、それを受け止めかねる自我の問題。そしてその自我の問題の中に苦ということがあり、その苦ということを、仏教は二千五百年間考えてきた。

福岡先生の言葉で言えば、流れであり、出来事のようなものについて、言葉を使い理解することによって、実体化して執着する。そういうことが苦しみの構造であると。そのことに気付かずに快適を追求して社会の仕組みをつくっていくことが、結果的に自分の足元を崩していくことになっていきかねないのではないかと私は思うのです。

木越 福岡先生からは生命そのものについてお話しいただき、織田先生からは主に在り方の問題、苦を感じる主体、「私」という問題についてお話しいただきました。

私たちと環境はつながっている

養老 私は環境問題に関心があるのですが、気になっていたことは、環境とは何であるかということです。つまり、今、織田先生がお話しになったように、言葉を立てると自然に自分を立てるという問題が起こるのです。

例えば、学生に、田んぼに行って稲を見たときに、稲を将来の自分だと思ったことがありますかと聞いたことがありました。当然、思ったことがありませんでした。けれども、福岡先生のお話しにあったように、食べ物を食べたら、それが体に入って自分の一部になるのです。そう考えれば、稲を将来の私だと思ってもいいわけです。昔の人はどのように考えていたのかというと、土から生まれて土へ返ると言っていますね。

お米は田んぼの水や養分を取って、育ってできるわけです。そのお米を皆さんが食べて、それが自分の体になっているのですから、どこからが自分で、どこからが環境か、よく分かりません。つまり、私たちと環境はつながっているのです。

そのような分かりきったことを私たちは、どうして切り捨ててしまうのか。実はそこに、自分を立てるという問題があるのです。何も最初から自分を立てないで、私は環境の一部だと言って流れのまま生きたらいいのです。

先ほど福岡さんが、私たちの体は気体のようなものだと言っていました。周りからいろいろなものが入ってきて、どこかに多少たまっている吹きだまりみたいなものです。入ってきては、出ていき、そのうち回収してしまうようなもの。けれども、そのような考え方は、おそらく明治以降の日本社会の中では、負け組となってしまう考え方だったのではないでしょうか。

稲も私であると考えていたら、同じ商売をやっている人に負けてしまう、そんな価値観で世の中が動いてきたのではないかと思います。

人間の誤解を破るはたらき無量寿

それでは、私を立てているものとは何かと言えば、脳なのです。脳が明らかに自分というものを立て、しかもそれに感情がこもっています。

先ほど、織田先生が快と不快という言葉を使われましたが、皆さんにとって基本的に自分は快ですね。自分が不快だというのは自己嫌悪で、普通の人は、自分は快の方に入っていると思います。

例えば、は口の中にあるときは汚くないのに、外へ出すとどうして汚いのでしょうか。皆さんも今、自分の口の中にある唾は汚いと思っていないはずです。けれども、他人の唾は汚いと思っているでしょう。自分の唾でもいったん外に出したらもう駄目ですね。

そこに自分というものに対する人間のどうしようもないもの、仏教で言えば業というようなものを皆さんもお持ちなのです。それは理屈でも論理でもないので持っていていいのですが、そこに好き嫌いが付いてしまうことに問題があります。福岡先生のように、私たちは世界の一部ですということを言われれば納得するのですが、感情が付いていかず、線を引いて分けてしまうのです。

例えば、よく世の中が変わったとか言いますが、皆さんを除いて世の中はありません。世の中が変わったということは、皆さんが変わったということなのです。情報化社会とは、情報が中心だと思っている人が大部分になったということです。そのように、いろいろな理屈を言うのですが、その根本を追っていくと、自分の感情を伴って分けるという、私たちの性質があるのです。

私たちは、外の世界と自分は別であると線を引いています。しかも線を引いて内側だけでいいと思っています。それを時々やめてみたらいかがですかということを言いたいのです。

木越 動的平衡の流れという中で、「私」とはいったい何だと考えればいいのでしょうか。

絶え間なく壊され続けるものとしての生命

福岡 生命現象を動的平衡として見ると、物質的な基盤というのは実は何もないわけです。先ほども申しましたように、次々と私というものが入れ替わっている。例えば消化管だったら二、三日で細胞は入れ替わり、筋肉だったら二週間ぐらいで入れ替わってしまう。血液細胞だったら数カ月で入れ替わってしまう。だから一年前と今日の皆さんは、物質としてはまったく別人なのです。だから本当は約束なんて守らなくてもいいんです(笑)。

けれども、それでは社会が成り立たないので、外側にさまざまなものがつくり出されたわけです。その一つが言葉、あるいは制度、契約、社会、文化です。

その中で自分は自分であるという、ある種の自己同一性というものが流れ流れていく。物質としては基盤がない生命体の中に、何か自己同一性というものをつなぎ止めておくものとして必要な作用が求められたわけです。それが私というものだと思うのです。

けれども、そこにも実は物質的な基盤はありません。一つは記憶というものが自己同一性を支えていますが、記憶もものすごい速度で変容しています。なぜかというと記憶というものを支えている神経回路もゆっくり入れ替わっているからです。

そういう意味では、私たちは物質的な基盤が何もないところに絶え間なく流れ、流れていくこの在り方に何とか抵抗しようとして、自己同一性というものをつくり出し、そのことによって、逆に縛られてしまっているというのが現在の私たちではないかと思います。

養老 「私」を立てるということは、明らかに文化で違うと思います。アメリカ人の学者が書いた本に、日本人の大学生百人とアメリカ人の大学生百人に、自分で決めたいこと、自分で決めたくないことを書くという調査の結果がありました。

面白いことにアメリカ人は、自分で決めたいことを紙いっぱいに書いても足りず、日本人に書かせると、二、三行で終わってしまったというのです。

アメリカ人が、何であんなに長く自分のやりたいことを書くのかというと、そうやって自分をつくるわけです。自分というものを一生懸命つくっていく文化があるということです。やはりキリスト教やイスラム教、ユダヤ教という一神教の社会では、どうしても自分というものを立てる必要性があるんだと思います。その典型が、私は「最後の審判」にあると思います。大天使がラッパを吹き鳴らすとすべての死者が墓からよみがえって、主の前で裁きを受ける自分がいる。そういう世界が自然と入っています。どうしてもそう考えざるを得ないというのが、文化とか伝統というものだと思うのですが、困るのは、その世界同士が喧嘩をすることです。そのように、「私」を立てるということは、文化によって違ってきます。仏教的な日本では、そんなに自分を立てないのではないでしょうか。

 

織田 細胞が集まって動的平衡で生きものが一つ存在する。それをネズミと名前を付けた途端に、ネズミの細胞という関係になってしまう。私は福岡先生の動的平衡という考え方が、仏陀の縁起、無我、無常の教えに重なっていると思いました。

私たちは、何事も言葉で捉える。捉えた途端にそういうものが実態的にあると思い込む。そう思い込んだ途端に、そういうものの条件のように見えてくる。ここに仏陀がどうしても人間に伝えなければならない苦しみの仕組みのようなものがあるわけです。

その人間にはたらく親鸞の教えに、無量寿ということがあります。無量寿、いのちという字が書いてあります。この無量寿とはどのようないのちなのか。

それは、生命体としてのいのちという意味ではなく、人間がどうしても誤解をする構造を何としても気付かせたいというはたらきです。これを仏教語で言うと、如来とか仏と言うのです。ですから、「寿」と書いてありますが、生命体というような意味ではありません。人間の誤解を破るはたらきが、いつもはたらいているということを言うのです。

木越 先ほど動的平衡の流れとして生命があるにもかかわらず、それへの抵抗として、生命は自己同一性というものを持ち、「私」というものを立て、それを自己とするという話がありました。福岡先生の分野の研究成果というものがずいぶん利己的な形で機能し、遺伝子操作であるとか、人間の自己、自我を守ること、自己同一性を限りなく固持するために利用されていると思うんですが、どのように考えればいいのでしょうか。

福岡 二十世紀の生物学は、いかにして細胞がシステムをつくるかということばかりを、一生懸命見てきたわけです。その結果分かったことは、情報の流れというものがDNAからRNAへ、RNAからタンパク質へという一義的な方向に流れていて、生命現象という現象をつくるための物質的な基盤がつくられているということが分かったのです。

それは非常に大きな発見だったのですが、ここ十年、二十年、細胞の科学というのは全然違うことを見つけるようになってきました。というのは、タンパク質をつくる方法は、どんな細胞でもたった一通りしかないんです。DNA、RNA、タンパク質。ところが、一度できたタンパク質を分解する方法は、現在私たちが知っているだけで十通りある。

細胞はつくることよりも、実は壊すことを一生懸命やっています。精妙に、どんな状況でも壊すことだけはやめないのです。なぜ細胞は壊すことをつくることよりも優先しているのか。それは、壊さないと新しくつくれないからです。もう一つは、壊さないと自分の内部にたまっていく無秩序を捨てることができないからなのです。

エントロピー増大の法則というものがあります。例えば、温かいコーヒーも冷めてしまう。熱烈な恋愛もすぐ冷める。これは全部エントロピー増大の法則です。

これはもう、宇宙始まって以来、時間が無秩序の方にしか流れないので、どうすることもできないのですが、生命現象だけは何とかそれに持ちこたえて、三十八億年間も生命現象をずっと紡いできたわけです。

それは秩序が保たれているということなので、エントロピーが小さい状態なわけです。けれども、エントロピー増大の法則は絶え間なく、それを無秩序にしようと、ないものにしようと、酸化してランダムなものにしようとして降り注いでくるのです。

何とかそれに抵抗するために細胞が選んだ方法は、最初から頑丈に固く強くつくるというのを諦めて、最初からゆるゆるやわやわにつくっておく。そして、ある種の平衡をかろうじて守りながら、あえて壊すことを優先して、内部にたまり続けるエントロピーをどんどん外へ捨てているのです。

細胞の中では、壊れたから捨てる、駄目になったから捨てる、酸化されたから捨てるのではなく、出来たてのもの、まだ全然使えるものでも、次々と容赦なく壊してつくり続けているわけです。

つまり、生命現象というのは最初から壊されるものとしてあるわけです。絶え間なく壊し続けている。それはでもミクロなレベルで行われていることで、大きく言うと、昨日の私は今日の私ではない。そこに何の一貫性もないし、実は何の同一性もないわけです。

けれども、絶え間なく壊され続けるものとしての生命の在り方ということに、私たちはどうしても、耐えられない。だから、それとは別に、何か同一性を保ちたいというものとして生み出されたものが、私というものなんですが、その生み出し方は文化とか社会とかの文脈で、それぞれ違うわけですね。

たぶん仏教の世界の私というものは、比較的その生命現象が不安定で絶え間なく流れているということに対して、神話的な見方より、それに恭順的な見方なのですね。

人間がつくり出すものというのは、絶え間なく壊され続けている生命現象というものに何とか一貫性を保とうして、人工的につくられたものとしてあるわけです。だから、絶え間なく流れて、絶え間なく壊され続けているものに対して、何か介入的な操作を行うということは、そもそも不可能なことなのです。

動いている自動車を運転しながら直すことはできません。絶え間なく動いている機械を運転しながら直すことはできない。必ず止めないといけない。科学というのは絶え間なく動いている生命現象をいったん止めて、それを見ているから、そこに名前を付けたり分析したりできるわけです。止まった生命はすでに死んでいる生命です。

介入的な操作、機械論的な操作というのは、まさに運転しながら自動車を直すようなもので、私は、本来的には不可能な行為だと思うのです。ただ、それを何とかやろうとして、何とかそれでうまくいっているように見えるのは、生命がむしろ、より柔軟なものだから、ある種の介入的な操作が一定の効果を現しているように見えるにすぎない。けれども長い時間で見ると、結局、それは無駄なもの、あるいは逆効果を生み出すもの、何らかのリベンジを私たちにもたらすものとして現れてくると思います。

 

木越 細胞自体はつくったものを壊そうとし続けていると。それに反して、私というものは自己同一性を保とうとしていると。そうすると、人間という生命は矛盾したものを内面に持って生きているということでしょうか。

福岡 そう思います。

織田 流れのようなことを考えた場合に、つまりそこにとどまるものは一つもないわけですが、流れというものがそこにあるのだというふうに考えてはいけませんか。

福岡 そのとおりだと思います。つまり、多摩川という川がありますが、そこを流れている多摩川というものは、実はないわけです。絶え間なく水が流れていて、二度と同じ水は流れていない。

シェーンハイマーはそこにインクを投げ込んで、水の流れと速さと深さを初めて見せてくれたのです。けれどもそれは流れ流れてどこかに行って、また雲になり、雨になり、循環して、ほかの川に流れていくにすぎないわけで、そこに実質的な基盤としてとどまったものとしてはないんですね。

けれども、それではあまりにも切ない。だから、人間は絶え間なく流れ流れていくもの、絶え間なく動いているものを何とかとどめよう、何とかそれを記述しよう、何とかその在り方を説明しようとし続けてきているわけです。

それは科学だけではなくて、絵画とか芸術とか文学とか、あるいは宗教がこれまで長い間行い続けてきたことであって、それぞれの文体は違うけれども、同じ願いがそこに込められていると思います。

 

木越 養老先生は、先ほど、私を立てるのは脳だとおっしゃいましたが、脳だけではなく、脳とは別の「私」、主体が体のどこかに在るように感じてしまうのですが。

養老 私というものは一つではないという見方ですね。体も私です。例えば私というものを決めているシステムが脳のほかにもあります。免疫です。私たちの体の中は、億で言っても何桁にもなるぐらいの生きものが住みついています。皆さん全員が生態系なのですが、多くの人がそのように思っていないのではないでしょうか。

なぜかというと、東京駅のエスカレーターのベルトに、最近除菌と書かれるようになった。かなりの人が、自分はばい菌と関係ないと思っているのではないでしょうか。そういう人は自分の口の中ぐらいたまには顕微鏡で見てください。いろいろな細菌が、口の中に拡がって動いていますから(笑)。

ですから、体も免疫も自分を決めますし、自分はいろいろあるのです。先ほどの私どもの意識も自分というものを決めます。ただ意識はなくなって戻ってくるんです。戻ってきたときに、毎回新しい自分だったら困るので、都合のいいことに、意識は同じであると決めてしまったんですね。私とは現象です。その現象を同じと決めたことによって、人間は、いろいろなことができるようになったのです。

福岡 その決めたということに大きな意味があったわけですが、決めたことによって、私たちは悩まされているのです。

私たちの体の細胞は六十兆個です。腸内細菌の数は百八十兆個です。実は三倍以上のばい菌と一緒に暮らしているんです。だから、人は一人で生きているわけではない。

免疫系は、まず最初に、ありとあらゆるものと戦うために非常に雑多な免疫細胞というのを百万通り以上つくり出します。

けれども胎児のある時期に、自分自身と出会った免疫細胞は死んでしまいます。残ったものが外敵と戦うわけです。だから免疫細胞は自分というものを知らないのです。自分というものは免疫細胞の中にできた空疎な空間、ボイドなのです。つまり、免疫細胞にとって自己というものは空なのです。でもそれでは困るから、それが私だと決めている。そこに諸悪の根源があるわけです。

織田 私というところに問題があると。つまり、私というものはないんだと。固定的な多摩川というものはなく、水が流れているということがあると。

それを日常語に戻すと、私というものがあるわけではないが、私であるということは、いつも流れているということになるのではないかと思うのです。

養老 流れているから最後に死ぬんですね。例えば今の世の中を見ていると、多くの方が自分は死なないと思っているような感じがするんです。死ぬのは異常な事件だと思っている。だから『バカの壁』に人間の死亡率は百パーセントと書いたのです。流れがそこで切れるわけですね。何の流れが切れたのかと考えると、これは非常に不思議で分からないのです。死ぬ時は、何がなくなるんですかね。体のどこかで動的平衡が壊れていくのでしょうか。

 

福岡 私たちは死んだときに死ぬのではなくて、生きているときにすでに動的平衡をバトンタッチし続けているわけです。けれども、個体としての私は合成と分解を繰り返しながら、一生懸命エントロピーを外へ捨て続けているわけですが、それでも少しずつ捨て切れないものが体の中にたまっていって、最後はエントロピー増大の法則に捉えられてしまう。

そのときが個体の死なのですが、実は地球全体の流れはどこも止まっていない。そういう意味で私は死なないわけです。けれども、個体としての、個物としての私は動的平衡状態をやめて、ランダムな流れの中に戻ってしまうということです。

養老 意識はどうかというと、これは間違いなく秩序活動だと思うのです。どういうことかというと、エントロピーが増大すると言いますが、別の言い方をすると無秩序が増えるということです。意識というのは無秩序の典型であるランダムということができません。意識でサイコロを振れないのです。サイコロというあんな簡単な道具がなぜ古くから今まであるかというと、一から六までの数字を完全にランダムに出せるから。こんなこと、人間ぐらい利口だったら簡単にできると思うかもしれませんが、絶対できないのです。だからサイコロがあるのです。

つまり、意識がある限りランダムになれないのです。ということは、意識があったら脳の中に、間違いなくエントロピーはたまっているということが分かる。だから皆さんは絶対寝るのです。意識がある限りは、それを続けたら脳は壊れる。

決して永久に連続的には続けられない。だから意識は、死ぬのではなく、時々切るという形、意識を時々なくすという形で持たせているのです。体の方は、個体ごと消す。その代わり子どもに受け渡していっていると思うのです。

福岡 必ずしも子どもをつくるという意味ではなくて、別に私の動的平衡がミミズに受け渡されてもいいわけです。あるいは木の葉に受け渡されてもいい。そうやって動的平衡は三十八億年間バトンタッチされ続けているので、別に人間は子どもをつくらなくてもいいと私は思います。つまり、遺伝子は子孫を残せと言っているのではなくて、自由であれと言ってくれているのです。

 「生命のゆくえ」ということがテーマに入っております。なぜ、「生命のゆくえ」ということを仏教の立場で考えようとするのかというと、やはり、今の人間の在り方に何か問題があるのではないかということを感じるわけです。特に生命に関して、本来あってはならない方向での人間の操作があるのではないでしょうか。

織田 私はいのちが閉塞していくのではなく、その上に乗っている自我が閉塞していくと思うのです。仏陀が言ったように、快と不快、都合のいいことを拡大して、都合の悪いことを排除していく。これが人間のこころの一番深いところにある問題です。そういうところから欲望が起こってくる。つまり、排除したいとか、もっと増やしたいとか、そういうことの営みの上に今、私たちの社会があると思うのです。

不快なものを排除すれば、快適な世の中になるのかと言えば、私はそうならないのではないかと思うのです。不快なものを排除すれば排除するほど、ちょっとした不快なことが、ますます不快になっていく。そういう世の中になっていくと、私たちの営みが、自分で自分の首を絞めていくことになるのではないか。今すでに、そういう意味でだいぶ締まってきているのではないかと思うのです。

 

ですから、いのちは閉塞しないと思いますが、それを閉塞させていくような自我の問題に気が付かなければならないと思います。私たちは、どこに立っているのかということを忘れずに歩んでいく、そういうことが課題であると思っています。

生きものはすべてつながっている

福岡 科学というのは、何か非常に建設的なもの、創造的なものとして捉えられがちです。けれども、科学がこれまで行ってきた最大の効用は、人間にはどうしようもできないことがありますという不可能性を教えてくれているのが科学の作用だと私は思うのです。

科学はエントロピー増大の法則に抵抗することはできないということを教えてくれています。科学は動的平衡状態にある生命現象を機械論的に扱うことができないということを教えてくれています。

だから、私たちはそういうものに対して、その人間がどうすることもできないことに対して、本当は抵抗すべきではないのです。何とかそれと折り合っていく、騙しだましやっていくということが実は大事なのです。

けれども人間は、何とかその絶え間なく流れていくもの、あるいは壊し続けているものをフィックス(固定化)しようとしているわけです。その一つの作用が、意識が決め付けている私というもの、あるいは自己同一性というものだと思うのです。

 

養老先生のご指摘にある、情報化社会の情報というのはいったい何か。インターネットの中にあるような、ためられているものとしての知識は実は情報でも何でもない。

生命現象にとっての情報というのは、実は消えていくものなのです。一瞬現れて、そのシグナルが消えるから情報なのです。あるホルモンが放出されて、そのことによって生命現象は新しい平衡状態を取って、そのホルモンはたちまち分解されて消えていくのです。消えていくから反応が起こるわけです。消えていかないと、生命にとっては情報ではないのです。

ところが、人間の精神作用というか、自己同一性を求める作用が、あまりにも極端になりすぎて、現在ほとんどのことが残るようになっています。

ですから、生命というものが絶え間なく壊され続けているということに、もう一度立ち返らないといけない。今、求められる新しい理念としての生命観は、本当はずっと昔から人間が分かっていたことなんです。それを取り戻すためには、もう一度その生命というものが壊され続けているものだということに戻らないと、私たちは正気に戻れないのではないかと思います。

養老 生きものはすべてつながっているんですね。だからいのちのゆくえは生きもの全体の、もっと言えば地球環境がないと生きものは生きていけませんから、すべて同じなのです。。仏教でいうです。それこそですね。そのように仏教には、一言で言ってくれている言葉があるんです。昔の人は暇だったなと思うのと同時に、本当によく分かっていたんですね。

木越 「私」という意識があって、科学を含め、そこですべてをコントロールしていこうとする在り方が、生命の本来のからすると問われているのではないか、そのようなことを聞かせいただきました。科学、そして仏教に何を学び、どのような在り方を創造していこうとするのか、そこに「生命のゆくえ」を考える一つの道があるように感じました。

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