2020年04月20日
Category 法話
お寺や仏像に興味あるけど、仏教の考え方となるとなぁ。宗教ってなんか近寄りがたいような感じがするけど。仏教徒!?と言われると困るけど、でも墓参りをしているし…こんなことを思ったことはありませんか?
知らなくても生活には困らないけど、その教えが人々を支え、2500年以上確かに伝えてられてきた仏教。身近に感じる仏教のギモンから「そもそも仏教とは何か」を考える超入門講座「人生にイキる仏教ー大人の寺子屋講座」。
この抄録は第1回「そもそも仏教とはどんな宗教?-仏教と宗教」の内容①です。
この講座では、日常の疑問というところから、仏教の教えを考えていきたいと思います。例えば、私たちにとって「生きがい」とは何か、あるいは「不安」や「争い」をどうしていけばいいのか、「家族」をどう営んでいけばいいのか、そして私たちにとって「幸福」とは何なのか。そのようなことを、仏教の視点から考えていきたいと思っております。
まず、今日は「そもそも仏教とはどんな宗教なのか?」ということを一緒に考えてみます。宗教と一口に言いましても、色々なイメージが湧くと思います。
街を歩けば、お寺がたくさんありますし、辻には祠があります。神社も靖国神社や明治神宮という大きな神社から、お近くの神社まで沢山あります。それからキリスト教の教会やイスラム教のモスクもあったりします。
あるいは、新宗教と言われるものもありますね。天理教や金光教など江戸時代末期に起こった宗教や、近年になって起こってきているような新宗教というものもありますね。その中にも、仏教系や神道系という様々な種類があります。そのように、普段から宗教に触れる機会があるのだと思います。しかし、あの重大な事件を起こしたオウム真理教のように、宗教をイメージする時に宗教の怖さが頭に浮かんでくることもあると思います。
これだけの宗教がたくさんありますが、そもそも宗教とは何だろうかと、疑問をもたれると思います。
今日は宗教と仏教との関係を、整理を付けながら学び、2500年前に生きたお釈迦様が覚りをえて仏教を開いた、とされる仏教の、そのお釈迦様の覚りの内容は一体何だったかとういう問題について考えてみたいと思います。
「宗教の定義は宗教学者の数ほどある」と言われ、宗教学の中でも定義が定まっていないようです。岩波書店の『広辞苑』では、こう定義をされています。
神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民族宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、多種多様。多くは教祖・経典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。
難しい解説ですね。もう少しわかりやすい解説がないかと調べて見ますと、三省堂の『新明解国語辞典』が、私たちの宗教に対するイメージに近い定義をしています。
生きている間の病気や災害などによる苦しみや、死・死後への不安などから逃れたいという願いをかなえてくれる絶対者の存在を信じ、畏敬の念を抱き、その教えに従おうとするこころの持ちよう。またそれに関連して行われる儀礼的行為。
私たちの人生には、仕事、学業などの場面で様々な苦難があります。あるいは、2011年の東日本大震災のような災害も突然に起こります。同時に、必ず「老い、病し、死んでいく」という「身」を生きています。老いない者、病を持たない者はいませんし、必ず死んでいきます。それが訪れるタイミングが先に延びることがあっても、避けることはできません。
この「老病死」は、私たちにとって大きな不安であり、また苦悩でもあります。そのような苦悩から逃れたいと思うのは自然です。その自然な願いというものをかなえるところに宗教があると辞書では定義されているのです。
苦悩から逃れたいという願いが起きた時、どこに頼むのでしょうか。病気の時は、お医者さんに頼むことができます。「老い」であれば、お医者さんであったり、美容製品であったり、サプリメントであったり、色々です。「老・病・死」は、押さえ込んだり、遅らせたりすることはできます。しかし、決して無くすことはできません。どうすることもできないのが事実です。すると、この社会の中の様々な手段をもってしても何ともできないものを乗りこえるために、絶対者あるいは聖なるものにすがる。老病死や様々な苦悩を解決してくれるということを望んでいくことが宗教の一つの形だと『新明解国語辞典』では理解されています。
ただ、恐らく現在宗教に関わっている関係者の方は、この定義ではちょっと違うと思うのだろうと思います。もちろん苦悩の中で助けてほしいというのは、人間の素朴な願いでありますし、そのような時に神や仏に願うというのは一つの信仰の形ではあります。しかし、神道の神とキリスト教の神の位置づけは違いますが、神と人間の関係や、神から人間への贈与や恵みというものが、それぞれで重要な意味を持って説かれていると思います。ここに困った時にすがるものという、一般的な神仏のイメージとそれぞれの教義とのずれがあり、そこに宗教に対する、私たちの分からなさがあるのだと思います。
日本人、特に現代人の多くは、「何かを信仰しているわけではありません。無宗教です」という感覚だと思います。それは、神社やお寺と日常的に関わることがなく、お祭りや仏事(法事や葬儀)、あるいは年中行事(お正月など)の時に関わるぐらいだということなのでしょう。だから、神の贈与や恵みを、「これが私たちにとって信ずべきものなのです」と宗教者側から言われたとしても、宗教が身近でなく、そもそも「神」という存在そのものやその「贈与」「恵み」を信じることができないのではないかと思います。
ではその「神」という存在やその仕組みを理解していけば宗教になるのかと言うと、そうでもありません。ルドルフ・オットーというドイツの宗教学者が「聖なるもの」というものは、私たちの合理的な理性でとらえられるものと非合理的なものとからなり、その非合理的なものの直接的な経験が宗教の根幹にあると言います。例えば伊勢神宮のような大きな神社に行くと、入ったところで「場の力」というようなものを感ずることはないでしょうか。古い山奥のお寺に行って「神聖なもの」を感じたことはないでしょうか。これは頭で考えるのではなくて、感じるものとしてあります。理解しようとすると瑞々しさは失われていきます。これが頭で考えるのではなく、感じるということですね。神仏との出遇いは、そのような直感としてある。これが宗教を学ぶ難しさでもあります。
ですから今回は、「神」や「仏」という信じる対象を理論として直接考えるのではなくて、信ずるという行動はどういうものなのかということを考えてみようと思います。
中心とする教えがある≫ に続く
鶴見晃(つるみ・あきら)氏/同朋大学准教授
1971年静岡県生まれ。大谷大学大学院博士後期課程修了。真宗大谷派(東本願寺)教学研究所所員を経て、2020年4月より現職。共著、論文に『書いて学ぶ親鸞のことば 正信偈』『書いて学ぶ親鸞のことば 和讃』(東本願寺出版)、『教如上人と東本願寺創立―その歴史的意味について―』『親鸞の名のり「善信」坊号説をめぐって』『親鸞の名のり(続)「善信」への改名と「名の字」-』など多数。