対談 若松英輔×田村晃徳「言葉×仏教―人間にとっての物語を考える」③ 真宗大谷派(東本願寺)真宗会館

2020年05月15日

Category 対談

言葉×仏教 ③

人間にとっての‟物語”を考える

人は、言葉によって救われもするが、言葉によって迷ってもいく。これを知るからこそ、仏教は言葉を大事にしてきた。

言葉は、書物の中だけでなく私の中にもあり、われわれの人生の物語を紡ぎ出している。

厳しい社会状況や自然災害が続く今、私たちを突き動かす大きな力を持つ「コトバ」「物語」について共に考えてみたい。

この抄録は2018年6月10日に真宗会館で開催された「サンガネット特別シンポジウム」の抜粋です。

信仰には答えではなく 応えが求められている。

若松 信仰というのは〝与えられるもの〞で、〝与えられるもの〞を頑張るという考
え方はないんだと思いますが、応えていくということは大事なのではないでしょうか。アンサーではなく応答ですね。
 信仰においては私たちはいつも「応え」を求められているにもかかわらず、どこ
か「答え」を持とうとしていると思うんですよ。例えば阿弥陀さまが私に求める応答は、嘆きや、苦しみ、悲しみなのかもしれないのに、われわれはつい「如来とはこういうことです」のような、おかしな答えを語るという、ちぐはぐになっているような気がします。

田村 そのお話しで思うのが、仏教での「如来の呼び声」という表現です。如来が私に向かって声を掛けてくれている。南無阿弥陀仏というお念仏そのものが、この私に対する呼び声なんだと。そう自覚したときに、どう応じるのかが重要ですね。

若松 キリスト教では「アーメン」という言葉があります。「はい、私はここにおります」ということです。もちろん神はそんなことはわかっているけれど「私がここにいるということを自覚する」ために神が言わせているんです。自分は確かに今、ここに生きているという自覚です。
 念仏も同じことが言えませんか。声に出さずとも念仏するものの存在、あるいは声を出してうめくほかないものの存在がより深く見えてくる。そして、私は今ここに生きていると自身が深く自覚するという大事なことを、阿弥陀如来がくださっているのではないでしょうか。

あの震災のあと、われわれは コトバを届けられただろうか。

田村 今日は「物語」というテーマについても触れたいと考えています。誰しも人生を通…

こちらはサンガネット会員限定記事です。
サンガネット会員(有料)になると続きをお読みいただけます。

ログインして全文を読む

最新記事
関連記事

記事一覧を見る

カテゴリ一覧
タグ一覧
  • twitter
  • Facebook
  • Line
  • はてなブックマーク
  • Pocket