対談
言葉×仏教 ③
人は、言葉によって救われもするが、言葉によって迷ってもいく。これを知るからこそ、仏教は言葉を大事にしてきた。
言葉は、書物の中だけでなく私の中にもあり、われわれの人生の物語を紡ぎ出している。
厳しい社会状況や自然災害が続く今、私たちを突き動かす大きな力を持つ「コトバ」「物語」について共に考えてみたい。
この抄録は2018年6月10日に真宗会館で開催された「サンガネット特別シンポジウム」の抜粋です。
信仰には答えではなく 応えが求められている。
若松 信仰というのは〝与えられるもの〞で、〝与えられるもの〞を頑張るという考
え方はないんだと思いますが、応えていくということは大事なのではないでしょうか。アンサーではなく応答ですね。
信仰においては私たちはいつも「応え」を求められているにもかかわらず、どこ
か「答え」を持とうとしていると思うんですよ。例えば阿弥陀さまが私に求める応答は、嘆きや、苦しみ、悲しみなのかもしれないのに、われわれはつい「如来とはこういうことです」のような、おかしな答えを語るという、ちぐはぐになっているような気がします。
田村 そのお話しで思うのが、仏教での「如来の呼び声」という表現です。如来が私に向かって声を掛けてくれている。南無阿弥陀仏というお念仏そのものが、この私に対する呼び声なんだと。そう自覚したときに、どう応じるのかが重要ですね。
若松 キリスト教では「アーメン」という言葉があります。「はい、私はここにおります」ということです。もちろん神はそんなことはわかっているけれど「私がここにいるということを自覚する」ために神が言わせているんです。自分は確かに今、ここに生きているという自覚です。
念仏も同じことが言えませんか。声に出さずとも念仏するものの存在、あるいは声を出してうめくほかないものの存在がより深く見えてくる。そして、私は今ここに生きていると自身が深く自覚するという大事なことを、阿弥陀如来がくださっているのではないでしょうか。

あの震災のあと、われわれは コトバを届けられただろうか。
田村 今日は「物語」というテーマについても触れたいと考えています。誰しも人生を通して言葉が紡がれ、物語になる。例えば私の人生の大きな出来事は、震災です。阪神・淡路大震災も東日本大震災もどちらも体験していて、つくっていた価値観が全部、一夜にして崩れていった。こうした震災の経験、お別れの経験が自分の人生にどう生きてくるのか考えてしまうわけなんです。
ところで先生は、東日本大震災の際に宗教界への問いとして「死を語る人は多かった。しかし、死者を語る人は少なかったが、なぜだろう」ということをおっしゃっています。まず、そのあたりをお話ししてもらってもよろしいでしょうか。
災害で亡くなった「数字」ではなく、それぞれの、かけがえのない一人をおもう。
若松 震災だけではないのですが、あの震災は日常の中に隠れている危機というものを露呈したんだと思うんですよ。福島の原発事故もそうです。
そしておよそ2万人の方々が亡くなったのですが、そこで気をつけなければいけないなと思うのは、「かけがえのない一人というものを、われわれはどこかで見過ごしていないか」ということ。かけがえのない一人を、あれほど強く、深く認識したことはなかったのに、宗教界が沈黙したと思えてしまう。
人間の肉体が死んでも人間は消えない、あなたのより近くにいるんだ。これはわれわれの生命の理(ことわり)なのだと、宗教者が語らずして誰が語るのでしょう。
例えば嘆き悲しんでいる人に、あなたの大事な人はいなくなって、それで終わりですと人は言いません、声に出しては。声に出しては言わないけど、まるでそういう論調でしたからね。全部で何人の人が亡くなったということを強調すれば、そうなるわけなんですよ。
われわれはあのときコトバを運んで、寄り添わなくてはいけなかったんですよ。僕は宗教者ではありませんが、そう痛感しました。物資ではなく、「コトバ」を運ばなくてはいけない。
もちろん実践された宗教者もたくさんいたと思います。けれども「社会的存在としての宗教」として、私たちはあなたのために祈っているという以上のことが、あのとき必要だったということは、やっぱり思います。
田村 宗教者の果たすべき役割が見えてきますよね。
若松 それから、いろんな危機がありました。命の危機、衣食住の危機、健康や仕事の危機。そして魂の危機もあった。大拙の言葉で言う「霊性の危機」ですね。それを受け止めることができるのは役所ではなくて宗教です。
けれどもわれわれはあのとき「霊性の危機」というものを受け止めずに今日に至っているのではないですかね。そこが露呈したまま、そこから血が流れ続けるわけですよね。それを見過ごしていなかったかと問わないといけない。
田村 われわれの日常生活の根底は何に支えられているか。日常を支え守るものがやはりあって、それが崩れ去ったという認識を、たしかにもっと強く持たなければいけなかった。
若松 例えば食べ物がないとお腹を空かしている人がいれば、われわれは食べ物を与えますよね。与えるというよりも、実は受け取ってくださいと。耐えられないのはこちらなんです。
同じように、こころから血を流している人を放っておいたりしないですよね、通常。こころから血が流れているのを確かに見ることができるのは、皆さんの言葉で言えば「弥陀の光」なのではないですか。涙もそうで、本当に苦しい人は涙が枯れるから泣くことすらできなくなる。こころの中を流れている見えない涙をどう見ていくのかというのが、宗教の世界に託された、とても重要なことだと思います。
田村 今のお話を聞いて、先生がご紹介されている神谷美恵子さんの本にあった「そのいとおしみの深さは、経てきた悲しみの深さに比例している」という言葉を思い出しました。大慈悲という表現があるように、慈しむという思いには、その一方で深い悲しみがあるのだと思います。
若松 愛するということは、悲しみを積み上げていくことですよね。悲しみはない方がいいのかという問いに対する応えは、そこで何となく見えてきます。悲しみは愛の証しだから、ない方がいいなんてことはあり得ないですよね。むしろ悲しみなき人生の方を、われわれは恐れないといけない。そういう意味の逆転というのが本当はとても必要です。悲しみというのは、われわれが何者かを愛した最も確かな証しなんだということですよね。
われわれはある価値観、ある社会的な常識の中で生きているんですけど、ときにはそれをひっくり返してみると見えてくるものがあります。世の常識と、私の中のこころの奥底の思いを見つめてみる。それが相矛盾しつつも併存できるというのが、人間のなんとも言えない生の在り方なのではないでしょうか。
田村 私たちはつい表面的に日々を過ごしがちです。でも今日は、言葉の力やこころとの関係などを考える貴重な時間をいただきました。
まだまだ聞きたいことは尽きませんが、先生、本日は本当にありがとうございました。